妙に目が冴えて眠れない夜だった。風に叩かれる窓が煩いわけでも、寒さが布団さえ越えて身を凍らせていたわけでもない。ただ、眠れなかった。俺も獣も、多分、同じ理由で。

「山男」
「……なんだ、獣」

 暗闇の中、密やかな声で口火を切ったのは獣の方だった。

「お前の親に、墓はあるか」
「無いな」
「無いのか」
「強いていうならこの山全てが俺達の墓だ」
「……お前の墓でもあるのか」
「そうだ。山に生まれ、山に生かされた俺は、いつかこの身を山に還す。それが山に生まれた者の定めだ」
「…………定め、か」
「ああ」

 羨ましい。獣が、声に出さずにそう呟いた気がした。

「お前は、生きる道を知っているのだな。お前自らが歩まねばならない、歩んでいける道を、知っているのだな」
「……お前には、無いのか?」
「……わからない」

 静かで、それでいて滴るほどに感情が滲んだ声だった。
 絶望、切望、渇望、困惑。少しの諦念と、莫大な虚無感。親に捨てられた子供が、絶望と希望の狭間で啜り泣きながら、心のどこかでもう親が来ないことを悟っているような、複雑で、切ない感情が。

「私は、いつも父上の背を追って駆けていた。大きく、逞しく、誰より強い背中だった。消える筈がないと思っていた。……けれど、もう、私の前にあの背中はない」

 ぐす、と鼻を啜ったのは寒さからだろうか。声は震えていなかったが、堪えていたのかもしれなかった。確かめる術も、拭ってやる術も無かった。例え本当に涙していたとして、そんな資格も、自分には無いような気がした。

「……獣、」
「……なんだ?」
「俺は、ずっと一人だった」
「…………」
「生まれてすぐに母を亡くして、十かそこらで父を亡くして、それからずっと一人だった。けれど、寂しいと、思ったことがなかった。悲しいとも」
「それは、」
「強かったからじゃない。知らなかったんだ。“孤独”というものがどんなものか、俺は、知らなかった」

 そして、今も知らないままでいる。
 わかる日は、恐らく来ない。少なくとも、俺がこの山に生きている限り、絶対に。
 そして俺は、一生この山から離れることはないだろう。これは曖昧な予想や予感でなく、明確な確信であり、決定された未来だった。決して覆ることの無い。

「何故」
「……言っただろう」

 山で生まれ、山で生きたものは、いずれ山に還る。それが定めだと。
 俺に山で生きる術を教えた父も、今は山に還った。曾祖父も、曾祖母も、祖父も、祖母も、母も、みな山の中で生まれ、山に生かされ、与えられた物を返すかのように一様に山へと還っていった。
 きっと俺も、いつかは山へ還ることになる。皆がそう生かされてきたように、俺もこの山に生かされてきたのだから。
 真冬に一人、親もなく放り出された子供が生きていけるほど、この山は優しい土地ではない。それでも、俺は生きていた。生き続けた。俺は今もなお生かされ続けているのだ、この山に。

「獣」

 呼び掛けた声に答えは無かったが、眠った訳ではないと知っている。
 何故なら、お前はそういう獣なのだから。

「俺は、お前が羨ましいよ」

 お前は、戦場に生きる獣だ。爪を研ぎ、牙を磨き、血を啜り肉を食らい、傷付いても疲れ果てても、それでも歩むことを止められない生き物だ。
 つがいを作り、子を成して、同じようなことばかりを繰り返すだけの安穏とした日々を暮らすには、お前は余りにも幼くて、そして純粋が過ぎる。

「……けれど、だからこそ、お前の墓は此処にはないんだ」

 ――――きっとお前も、もう、気付いているんだろう?