獣が熊を狩って来た。自身の身の丈の倍はある熊を。朝から大飯をかっ食らっていたのはこのためか、と賞賛すら忘れて呆然としている俺の前に、どすん、と黒く重い塊が落とされる。
 土間に落とされた毛むくじゃらの塊から、濃い血の臭いが沸き上がってくる。ひょっとして、ひょっとしなくてもずっと引き摺ってきたのか、これを。一人で担いで来たことには感心するが、後で血の跡を消してこなければ。
 基本的に森に棲む獣達は、人の臭いが濃いところには近付かない。そこが人という生き物の縄張りであることを理解しているからだ。だが、この血の臭気は強すぎる。ただでさえ春先の獣達は飢えで気が立っているというのに、こんなに濃い臭いで誘われては我慢も出来ないだろう。

「……よく狩れたな」
「熊より父上の方が強い」

 ……返答になっていないような気がするが、まあいいだろう。この獣が元気になるにつれて食糧の減りは目に見えて加速していたのだ。これだけの肉なら――いや、この量では三日保てばいい方かもしれない。自分で狩りを出来るようになっただけ有り難いが、なんでもかんでも狩りまくるのは山の環境が崩れかねないから逆に困る。
 あれやこれやと言いたいことは山程あるが、とりあえず。

「獣、俺はこいつをバラしておくから、お前は湯を沸かして血を落とせ」

 視覚的にも嗅覚的にもえぐいその状態をどうにかしろ。俺の言葉に頷いた獣が、朝に汲んできた水を取りに向かったところで、土間に転がされた熊を担ぎ上げて家の裏手に運び込む。湿った土の臭いに、生臭い血の臭いが混ざる。
 これだけ大きい獲物をさばくのは久しぶりだ。いつにない機会に心踊るより先に億劫だと思ってしまうのは歳だからだろうか。大の字に転がした熊を前に、一度手を合わせて黙祷する。

「……お前の命を奪うことを、お前の血肉を糧にして生きることを、許さなくていいから認めてくれ」

 死した獣の血は土に滲みて山の中に還り、骨と膓は埋めることで山の樹木の実りの糧になる。獣の捌き方も、処理の仕方も、全ては父に教わった。
 腹を開いて毛皮を剥ぎ、肉の筋にそって刃を滑らせて骨を抜き、溢れる血の中から膓を引きずり出して分けて、肉を捌く。噎せ返るような血の臭いに、吐き気を催さなくなったのはいつからだろう。
 初めて捌いたのは兎だった。生け捕りにした兎の息の根を止めるところからやらされて、泣きながら柔らかい体に刃を突き立てたことを、今でも覚えている。

「……ふぅ……」
「終わったか?」
「ん、ああ、大体はな」

 大まかな仕分けが終わり、一息ついたところで身を清め終わった獣が裏手にやって来た。すっかりばらばらになった熊を見て、「思ったより食いでが無さそうだな」と残念そうに呟く。そのあっけらかんとした物言いに思わず笑いが溢れた。

「獣を捌く手間は獣の大小に関わらず同じなのか?」
「……そうだな、大体の手順は変わらないが、でかい方が骨が折れる」
「膓は捨てるのか?」
「埋めれば草木の糧になる」
「わざわざ埋めるのか」
「腐ると臭い」
「……成程」

 最後の一言は冗談のつもりだったのだが、伝わらなかったらしい。腐ったら臭いがひどいのは確かだが。
 暫く熊の頭とにらめっこしていた獣が、思い付いたように言う。

「……なぁ、山男」
「なんだ?」
「次は、私に捌かせてくれないか。やり方を教えてくれ」
「……かまわないが、」

 どういう風の吹き回しだ、とは、どうしてか聞く気にならなかった。
 その日、熊の膓と骨を埋める穴を掘っている間も、調理した肉を食べている間も、獣はやけに神妙な顔でしきりに何かを思案していた。
 やはり問う気にならなかったのは、獣の抱いたその疑問に対する答えを俺が持っていないと、我知らず、気付いていたからかもしれない。