雪がしんしんと降り積もる、真冬の静かな夜だった。豪雪のために運転を見合わせてしまった電車からあぶれ、宿やタクシーを探すビジネスマンで溢れ返る駅前で、そいつは雪原に佇む鶴のようにまっすぐそこに立っていた。
 一枚の静止画を見ているようだった。
 そいつがいるその空間だけが切り取られたかのように静かで、同時に――何故だろうか、目に焼き付く程の存在感を持っているそいつが、触れれば容易く溶けて消えてしまう雪のように儚げに見えて、なんとなく、そう、雨の中の捨て犬に傘を差し出すような戯れにもにた気持ちで、俺はそいつへと傘を傾けたのだ。

 朝の空気に爪先が悴んでいるような心地がした。スリッパに毛糸の靴下を履いていても、爪先から水が染みるように冷えていくのはここが台所だからというそれだけなのだろうか。
 昆布出汁に薄口醤油で味をつけた汁に片栗粉を溶いてとろみをつける。ふつふつと煮えるそこに細長く切った絹ごし豆腐を放り込んで暫く煮る。豆腐が浮いてくる迄の間に昨日炊いたまま手をつけなかった飯を二膳分、湯に通して滑りを取っておいて、温まった豆腐を盛った上から豆腐を隠すように飯を乗せ、汁をかければ出来上がり。豆腐が米の中に埋もれているから『うずみ豆腐』という安直な名前のこれは、列記とした京料理の一つである。寒い日や呑んだくれた後はお茶漬けよりもこれに限る。
 ほかほかと温かい湯気と共に出汁の香りを立ち上らせるうずみ豆腐を手に、テレビ前のローテーブルまで移動して、ソファーの上で羽毛布団を頭から被った状態で転がっている塊を揺さぶる。もごもごと動いた塊の隙間から、寝惚け眼の顔が出てきたのに向かって「おはようさん」と声をかければ、数回目をしばたたかせたそいつはこくりと小さく頷いて返した。
 テーブルの上に置いてあった眼鏡をかけたそいつは、同じくテーブルの上に置かれていたうずみ豆腐を見ると、のそのそと布団の間から這い出て、そのままカーペットの上へと正座した。風邪を引いた様子はない。ストーブの働く音だけが響く部屋の中で静かに湯気を上げ続けている器を前に手を合わせると、そいつもそっと合掌して器と匙を手にした。

 不思議な夜だった。
 捨てられた犬猫を拾うかのように人間を家に連れ帰り、寝床を与えて夜を明かした。ただの一言も交わさず、指先すら触れることもなく、ただ一夜を一つ屋根の下で過ごしただけ。
 元より男相手にくんずほぐれつの夜の格闘技をするつもりは毛頭なかったが、部屋に着いて寝巻きを渡すなりソファーに丸くなったこいつを見て犬猫より可愛いげがないと思ったのも事実だ。だからどうというわけでもないのだが。

 軽めの一杯をたっぷりの時間をかけて空にして、再び合掌したそいつは、そろりと立ち上がると昨夜壁に掛けておいたスーツへと歩み寄る。「シャワー浴びたきゃ貸すが」。昨夜風呂どころか夕飯も食べないまま直ぐ様睡眠を選択していたそいつにそう告げるも、そいつはまるで俺の声など聞こえていない様子でさっさと着替えを済ませてしまう。そして、同じくまとめて置いてあった鞄から何かを取り出しテーブルへと置くと、一瞬だけ俺に視線をくれて、そのまま静かに部屋を出ていった。
 空になった器を二つ、重ねて流し台へと放って、あいつが置いていった何かを手に取ると、それは蒸栗色の和紙で作られた名刺だった。プライベート用の物なのだろうか、肩書きや会社名といった情報が一切ない、ただ名前とメールアドレスだけが楷書の筆文字で刻まれている小さな紙切れ。

「――宗谷、冬司……ね」

 手の中に残るあの男の小さな痕跡を、そっと撫でながら確かめる。指触りのいい紙はどこか雪のように溶けて消えてしまいそうな錯覚を感じさせて、日の当たらない棚の上へとそれを置く。薄暗い棚の上にひっそりと存在している名刺は、日差しに溶かされることなく凍りつき、いつまでも日陰に残っている雪の塊を思い出させた。
 遠くから、がたんごとん、と電車の走行音が響いてくる。
 多くの人を足止めした雪は昨晩の内に止んだらしく、明け方、豆腐を求めて外に出た時には既に道という道は雪掻きがなされた後だった。雪が降った後の空気は、冷たいが澄んでいて心地よい。長い間その空気にさらされ続けるのは拷問に近いが、寝起きのボケた思考を瞬間的に覚醒させる冷たさが、俺は昔から好きだった。
 ストーブの働きのお陰か、僅かに曇り始めたガラス戸に指を這わせると、きゅ、と音を立ててそこだけ曇りが解消される。景観保護のために低い建造物ばかりが建ち並ぶ京都の空は広く、けれども、雲一つない冬の空はぼんやりと仄かに白く見えた。

うずみ豆腐