「どうして私に食べさせてくださらなかったのですか」

 治療用の天幕に入ってくるやいなや開口一番そう言った苑士の表情が、悲痛に歪んだものではなく寧ろなんの感情も見てとれない無表情だったことが、夏侯惇に真冬の寒波よりもなお冷たく暗い苑士の怒りをなによりも強く感じさせていた。
 前々からどこか歪というのか、多少歪んだ愛情を向けられているという自覚はあった。訓練で刃を掠めて切り傷を作ればそこに爪を立てられ、戦場で傷を負ったと聞けば包帯を解いてまで傷口に舌を這わす。苑士は仕官してきた当初から恋仲に至り今の今に至るまで、夏侯惇が傷を負うこと、特に血を滲ませ滴らせるようなことに対してなにか異常な執着を持っている男だった。
 どうして、私に食べさせてくださらなかったのですか。
 暗く闇に沈んだ虚ろな眼差しで夏侯惇を見つめながら、無表情のまま苑士は再度問う。どうして、と問われても夏侯惇には答えようがなかった。自らの油断が失わせた眼球は、その慢心の戒めと共に夏侯惇自身がその場で喰らった。失った眼球は夏侯惇の物だ。失うまでに至った罪も全ては夏侯惇のものだった。だから自分で喰らった。親から貰い受けた身体の一部を、屍の中に棄ててくるような真似は出来なかった。
 どうして。
 再度問うた苑士の指先が夏侯惇の頬に触れる。布で押さえられ包帯に塞がれた瞼をそっと撫でてくる手つきは優しかったが、夏侯惇はいつその指先が空の眼窩に突き立てられるかと内心気が気でなかった。未だ熱の引かない空間がじくじくと疼くように痛む。
 苑士。
 瞼をどうにも無図痒い動きで撫で擦る指先を握り込めば、武骨なそれはまるで氷かなにかのように冷えきっていた。

「元譲さま」
「なんだ」
「貴方様は、曹操さまのものでしょう」
「…は?」
「貴方自身が貴方のものでなくても、それが貴方の大事な方に捧げられたものなら、私はそれで構わないのです。貴方が私のものでなくても、貴方の全てが貴方のままで保たれるなら、元譲さまが元譲さまのままでいられるのなら、私はそれでもかまわないのです」

 崩れるようにして床に膝をついた苑士の身体が、椅子に腰掛けたままの夏侯惇の膝へと凭れかかってくる。元譲さま、元譲さま、元譲さま、元譲さま。譫言のように夏侯惇を呼ぶ苑士の声が段々と震え出し、いよいよもって夏侯惇にはどうしようもなくなってしまう。気遣いだとか慰めだとか、そういった繊細で柔らかい扱いを夏侯惇にはしてやれない。そういったものはどちらかと言えば夏侯淵の得手だ。そも、夏侯惇には何故苑士が傷付いているのかが分からなかった。いや、傷付いているのか、悲しんでいるのか、それとも何かを悔いているのか、苑士の涙の理由がとんと理解出来なかった。
 光を失った片目がじくりと疼く。苑士の溢した涙が膝に染みて、その温もりがまた片目を疼かせる。一先ず膝上の塊に手を乗せて撫でてみたはいいが、それはどうやら苑士の落涙を止めるどころか加速させてしまったようだった。

「元譲さま」
「…なんだ」
「私に、食べさせて欲しかったです。元譲さまの左目」
「……別に美味くはなかったぞ」
「それはそうでしょうけれど」

 小さく嗚咽を溢すだけだった苑士の声がどこか拗ねたものに変わったことに気付いて、夏侯惇は苑士の頭を撫でる手を止めた。「……俺は時々、お前の考えていることが理解出来なくなる」。実際には時々ではなく大概のことが理解出来ないのだが、そんな見栄も見抜いているのだろう、夏侯惇の膝に顔を押し付けたまま、苑士はくすくすと可笑しそうに声をあげて笑う。漏れ出す吐息が布越しに内腿に当たるのが無図痒くて身を捩らせれば、それに気付いた苑士が立ち上がり、夏侯惇の膝を跨ぐようにしてその上に乗り上げた。
 いつの間にか機嫌を回復させたらしい苑士の唇が包帯の上から夏侯惇の左瞼に触れる。じくり。傷が疼く。左頬に、鼻先に、右瞼に、右頬に、触れた唇がそのまま夏侯惇の荒れた唇を食む。
 ――こんな、いつ人が来るとも知れぬ場所で!
 そう叱りつけようにも唇は塞がれたまま、膝の上に乗り上げられた姿勢では抵抗も難しく、されるがままになっていた夏侯惇の唇を楽しむように啄んでいた苑士は、元譲さま、とひどく甘ったるい声音で夏侯惇を呼んだ。なんだ。答えようと開いた唇を苑士が伸ばした舌が割り開く。

「ん、…っぐ…」
「…っふ…」
「っぅ、ん、んん…ん…」

 背筋に指を這わされているかのような寒気に似た熱が腰を重くさせる。乳を求める赤子のように舌に吸い付かれ、溢れる唾液を無遠慮に動き回る舌で舐め取られ、ついには呼吸すらも奪っていくような苑士の口付けに、何度行為を重ねても夏侯惇は馴れないままだ。
 深く息をついて乱れた呼吸を整えようとする様を、苑士はひどくいとおしげな瞳で見つめる。この目で見つめられる時、夏侯惇は戦場でもないのに死線に立っているようなひやりとした感覚を味わう。それは、傷を舐められている時、あるいは先程瞼を撫でられていた時にも感じた、仄暗く重たい、苑士の中に潜む“何か”の感触だった。
 元譲さま。相変わらず甘ったるい声音で苑士が夏侯惇を呼ぶ。ごく親しい仲の者にしか呼ばせていないその響きは、呼ばれる度にきつい首輪を締め上げているかのように呼吸を妨げた。

「あいしています、元譲さま」

 許されるなら、血の一滴まで残さず食らい尽くしてしまいたいくらい。
 果たしてそれが正しく恋や愛と呼べるものであるのか、夏侯惇にはやはり、分からなかった。

骨まで喰らって愛と散れ