好色とよく噂される自分でも、その手練手管を学ぶ前の純粋だった頃は確かにあった。寧ろ、あの人にそういった遊びを教えられるまで、自分はどちらかと言えば内向的で、陽の当たる外を駆け回るよりは薄暗い書庫の中で日がな一日本を読み耽って過ごす方が好きな、我ながら薄暗く大人しい子供だった。

「猫を手懐けるのがな、好きなんだ」

 そうその人がぽつりと言ったのはある日の夕方のことだった。夕陽から宵闇に変わりゆく空を眺めながら煙を燻らせていた苑士は、どこか遠くを見るような眼差しで漂う煙が消えゆくのをじっと見つめていた。

「奴等は自由気ままな性質だろう?おまけに警戒心が強いから、一度や二度餌を与えた位じゃあ顔すら覚えない」
「すぐに撫でさせてくれるような人懐こい子だっているよ?」
「あぁ、そうだな。だがそれじゃ面白くない。一等気紛れで扱いづらくて仕方の無い奴を手懐けて、俺がいなくちゃ生きてられないって、そう思わせるのが好きなのさ」
「……猫の話、だったよね?」
「ああ、猫の話さ」

 夕陽の赤い光の中、猫のように笑うその人の歯がいやに白く煌めいて見えて、背骨を撫でられたような寒気を覚えた。

 女性の身体の柔らかさも、その香りの芳しさも、女性を口説き落とし陥落させる愉しみも、全ては苑士に手を引かれ連れて行かれた場所で教えられた。
 彼自身もよくよく女性を魅了する人ではあったけれど、同時にいつも満たされない顔をしている人だった。私では到底及ばない程に沢山の物をもっている人だったのに、あの人は望めば容易く手に入れられただろうその全てを、まるで路傍の石を見るような目で見つめては伸ばされた手を無視して眼前を通り抜けていくのだ。

 彼は気紛れで気難しい、彼がいつぞや『手懐けたい』と口にした猫そのものの男だった。

「ねぇ、」

 青白い月光が、隣に座る彼の輪郭を下弦の月のように細く映し出している。
 杯を煽る度に隆起する喉仏に、自分が呑んだわけでもないのに喉が焼けるような錯覚を覚える。同じ酒を呑んでいる筈なのにそれが味わったことのない美酒のように思えるのは何故なのだろうか。
 珍しく、最近になっては本当に珍しく彼から持ち掛けられた誘いは、今のところ本当に杯を傾けるだけで淡々と時間を進めている。それが些細な気紛れでも、二つ返事で頷いてしまうくらいには彼に惚れ込んでいる私に、彼は猫のように素っ気ない。
 椅子に投げ出すように凭れかけられた、乾いて皺だらけになった手をそっとなぞれば、くすぐったいとでもいうようにその手を柔らかく撥ね退けられた。やんわりとした拒絶は、触れようと伸ばした手を尾で叩き落とされたように感じる。

「…ちょっと触れただけだ、そう邪険にしないでくれないかな」
「やめろ」
「どうして?」
「どうしても」
「私と貴方の仲だ、今更恥ずかしがることでもないだろう?」
「言ってろ」

 その柔らかな拒絶を自覚したのはこの数年の間だけれど、拒絶を示す行為自体はもっと前々からされていたような気がして呼吸が詰まる。それを察してか否か、私の手を撥ね付けた手が慰めるように頬を撫でて去っていく。
 つかず離れずの距離を保ち続ける彼はひどく残酷だ。
 明確な拒絶をしないくせに、私の全てを受け入れてくれる訳でもない。いつしか私の中に芽生えていた感情に、それを根付かせた貴方が気付いていない筈はないだろうに。
 猫がじゃれつくような仕草で彼の肩に頭を押し付ければ、酒を並々と注がれた杯を口許に差し向けられた。波の無い小さな水面は、とろりとした蜜を満たしたようにも、水晶を嵌め込んだ細工物のようにも見えて、綺麗だ、とぽつり呟けば、そうだな、と枯れた声が髪を撫でて落ちて、静かな水面に消えていった。
 杯を受け取らないままにその端に唇をつけると、自然と傾きを変えられたそれから水面が揺れ、私の口の中へとその煌めきが吸い込まれていく。彼が嗜むにしては随分と甘い酒だ。そのくせ喉を熱くする。僅かに零れた雫は彼の親指に掬われて、そのまま彼の舌へと舐めとられていった。
 白い歯と、赤い舌。
 その歯が自分の肌に食い込み、つけた傷をその舌が舐める。そんな些細な妄想にすら身体が熱を持つ気がするのは錯覚なのだろうか。

「…ねぇ、頂戴」

 新しく注がれたばかりの杯を指してねだれば、その甘露は彼のにやりとした唇に全て呑み込まれて消えてしまう。
 ひどいなぁ。
 咎める視線の先に濡れた唇を舐める舌が映って、それにまた熱が上がる。

「…意地悪」

 幼子のようにむくれて見せれば、くつくつとその喉が鳴る。ガキみてぇな言い方してんなよ。目尻に皺を刻んだその瞳に宿るのはどこまでも冷淡で嗜虐的な鈍い光沢だ。暗がりから人を眺める、獣の目。意地悪。重ねて言った言葉は前髪を優しく撫でられて受け流された。

「頂戴って言ったのに」
「そんな可愛くねぇねだり方で素直にくれれてやると思うか?」
「じゃあ、教えて?」
「なにを」
「貴方を誘惑する、方法」

 普段はあまりしない、直球な私の物言いに、くっ、とその喉が鳴る。

「……なんだ、お前とうとう男にまで手ぇ出し始めたのか?」

 弧を描く唇から溢された「遊びなら余所でやれ」という言外の拒否は気付かないふりをした。遊びじゃない。遊びなんかで手を出したら、痛い目を見るどころの話ではなくなるものが欲しいのだ。

「遊びじゃない」
「……奉孝」
「遊びなんかじゃない、私は、本当に貴方が欲しいんだ」
「おい、奉孝」
「ねぇ、お願いだよ、もう気が狂ってしまいそうなんだ。お願いだ苑士――――私に、貴方を頂戴?」

 突き放そうと伸びた手を押さえ込むようにして弾けば、からん、と音を立てて杯が卓上に滑り落ちた。その衝撃で散った小さな雫が月明かりに煌めいて、音も立てずに落ちて見えなくなる。
 膝の上に乗り上げて、ぐっと近くなった距離。濃密に香る苑士の匂いは甘ったるいのにどこかほろ苦い。拒否がないことをいいことに近付けた唇が、けれども触れる直前で彼に名を呼ばれて止められた。

「…やめとけ」

 低く呟かれた制止は、貴方と私、そのどちらに向けてのものだったのだろう。探る視線に答えはない。けれど、ねぇ苑士、駄目だろうその声は。ふてぶてしく膝に乗り上げた猫は、無理矢理にでも降ろさなければ自分からは決して退くことはないのだと、貴方は知っている筈なのだから。――だから、本当に止めたいと思っているのなら、それでは駄目だろう。

 そんな――――まるで、なにか強く切ない衝動を必死に堪えているような顔をしては。

「……どうして?」

 喉が渇いていた。何が駄目なの、と絞り出した疑問の言葉は鼻先のその人のものと同じ響きを持っている。飢えて、渇いた、どうしようもない欲求に悲鳴すらあげられなくなった情けない声。

「女抱けなくなるぞ」

 吐息が熱い。苦さが抜け、甘いだけになった匂いは酒のものなのか彼の匂いだったのか、よくわからなかった。

「――貴方が抱いてくれるなら、それでもいいよ」

 そっとせり上がった喉仏を撫でた指は拒まれることなく、優しく食んだ唇はその先へ誘うように柔らかく開かれる。絡めた舌から酒の味が消えていくにつれて昂っていくのは私だけなのだろうか。押しつけられるように卓に倒れ込んだせいで、弾かれた杯と酒瓶が床に落ちる。大して残っていなかっただろう酒が零れて、僅かに跳ねた水音が聞こえた。
 そこから先は、ただ必死だった。
 堰を切ったように激しくなる接吻に意識が瞬く間に飲み込まれて、それだけで果ててしまいそうな心地よく狂おしい悦楽が身体を支配する。足りない。どれだけ唾液を貪っても、舌を伸ばして奥の奥を探っても、欲しいと乞い願うたったひとつの何かが捕まらない。
 もどかしい。
 それなのに、まだ、ずっと、永遠でもいいからこうしていたいとすら思う。
 焦れているのに、満たされている。呼吸のために逃げていく吐息すら欲しい。欲しかった。ただひたすらに、この人の全てが欲しいと思った。

「…っは…ふ、」
「……唇だけでこんなじゃ、本当に女抱けなくなるんじゃねぇか?」
「いい、貴方だけで、も、いい…っ」
「……ばぁか」
「…私を、こんな色狂いにしたのは貴方なんだよ…?」
「あぁ、そうだな」

 私が貴方を求める度に見知らぬ女を宛がって、私が貴方に近づく度に距離をとって女に寂しさを慰めさせて、私が貴方に触れる度に馬鹿な真似をするなと拒絶しては見せつけるように女に触れて。そのくせ、私を完全に突き放してはくれないのだから、貴方は本当に意地悪だ。
 私が、ずっと貴方を求めて飢えていたことを知っていたくせに。知っていて、更に飢えさせて、こんなにもどうしようもなくさせて。もうとっくのとうに手遅れだ。知っていた。ああ、そうだ、私だって知っていたんだよ。

 きっと私も、貴方の手の内で転がされていた、猫の一匹だったんだろう。

「…お前はわかりやすいんだよ、坊や。だから俺みたいのに目ぇつけられて、苛められちまうんだ」
「…っ…、それは、私の…せい、じゃ、な、ぁ…っ」
「…まぁ、中々見ものだったけどな?恋慕と嫉妬の炎に焼かれて焦れていくお前の様は」

 にやりと意地悪く笑う苑士は、やはりこの人の愛する猫そのものだと思う。この人に比べたらどんな人間だって大概はわかりやすい。着物越しに身体をまさぐられる感触がひどく焦れったくもどかしい。じりじりと弱い火で身体の芯から燻されているかのようだ。
 浅ましくも腰を擦り付けて先をねだる自分を見ても、苑士の愛撫はあくまでも緩やかで、燻る熱に視界が滲む。

「――なぁ奉孝、どうしてほしい?」

 ――求めるままに、食らってやるよ。

 舌舐めずりする獣の瞳の中に写り込む私の姿はいつぞや抱いたか弱い乙女の姿を彷彿とさせた。
 彼は、今までその手にしてきた全ての人に、こんな顔を見せたのだろうか。私にするように問うたのだろうか。そうしてそれに、応えてきたのだろうか。乾いた指先が溢れかけた涙を拭う度に、その感触でまた泣きそうになる。

 ――――ねぇ苑士、貴方は、手懐けた猫をどうするの。
 貴方なしじゃいられなくして、貴方なしじゃ生きられないようにして、貴方を求めて飢える猫を、貴方は一体どうしてきたの。

「……誰に、も、」
「ん?」
「今まで、誰にもしなかった位に……本当に、誰も抱けなくなる位に、激しく、して…?」
「……ばぁか」

 溢れ落ちた笑みに、白い歯が僅かに覗く。その白が一際煌めいて見えるこの夜が、このまま一生、明けなければいいのにと思った。そうすればこの人はずっとこうしていてくれるだろうか。他の誰の元にも行かず、猫のように気紛れに姿を消すこともないだろうか。
 そんな有り得ない想像は、猫の口に吐息と共に奪い取られて、くつくつと鳴る喉に嚥下されて――――そのまま、誰に聞かれることなく消え去ってしまった。

たったそれだけでもわ
たしはすごく夜がこわ
くなって、たまらなく
あなたがほしくなった