「苑士殿、ひとついいだろうか」
「なんでしょうかトウ艾様。書類に不備や不明な点でも御座いましたか?」
「いや、そちらはなんの問題もないのだが……」

 あれが、とトウ艾がちらり、心象の読めない表情で視線を向けた方向、部屋の入り口である扉の影から感じる殺意にも似た視線に気付いていながらも、苑士は顔色ひとつ変えないまま「あれなら放っておいてかまいませんから」と淡々とトウ艾に告げた。

 臨時の異動によって苑士がかつての上司であるトウ艾の元へとやって来たのはつい三日前のことである。
 過日遠征に出掛けた部隊が出先で疫病を拾ってきたらしく、幸い発覚も対応も迅速に済んだために死者こそ出ていないのだが、内勤している文官の多くが感染し休養に入ってしまったために、今この城内は数少ない非感染者によって仕事を捌かねばらない状態に陥っている。
 元来文官が多目に配属されているトウ艾の部署も例に漏れず、その穴埋めとして一時的にトウ艾の元へと召喚されたのがかつての部下であり彼の元での仕事の要領も心得た苑士だったというわけだ。

 ――ところが、その采配に不服な男が一人。
 たった今もトウ艾に人一人殺せそうな視線を送り続けている男、苑士の本来の上司である鍾会である。

 苑士がトウ艾の元に来てからというもの、日に最低一度、余裕さえあればその都度訪れては殺気のこもった眼差しで自分達の動向を観察――もとい、監視し続けている鍾会に、トウ艾が辟易していないと言えば嘘になる。たった三日の間とはいえ、人員不足で多忙を強いられている中、さらに憎悪と嫉妬と殺意の入り交じる不穏な視線に晒され続ければ、人より多少神経が太いと自負しているトウ艾とて疲弊するのは当然のことだ。
 元々自分が鍾会に何か妙な敵対心というか、対抗心を持たれていることは自覚していたし、そういった感情を向けられることにも慣れはしないが受け流せる程度の耐性も持ってはいる。だがしかし、気力体力共に危うい状態の今、鍾会の存在ははっきり言って耳元を飛ぶ蚊や蝿のように鬱陶しい。
 だからこそトウ艾は、手っ取り早く彼をなんとかしてもらえないかと、苑士に「少し抜けて話して来ても問題はないが」と気遣いの皮を被った懇願を試みたのだが、

「仕事を回す為の人員である私が他の方を差し置いて執務を抜ける訳には参りませんので」

 …………この返答である。
 確かに苑士は今はいない文官達の穴埋めとして派遣されているのであり、その台詞は正論以外の何物でもない。さらに「休憩ならばトウ艾様がとられて下さい。昨日も誰より遅くまでお勤めなさっておいでだったではありませんか」とまで続けられてしまうと最早ぐうの音も出ない。上司である自分が必要最低限の休息しかとっていないのに、部下である苑士が、例えその上司から休息を促されたとて素直に従う筈がない。特に苑士は昔から生真面目で忠誠心に厚い頑固な類の人間であるのだから、この反応は容易に想像できるものだった。
 トウ艾は苑士のそういった気質を知っている。かつてとはいえ短くない期間上司であったのだ、わからない筈がない。

 ――苑士がトウ艾の言葉の真意を知りながらもそれをあえて拒否していることも、鍾会に対する苑士の心象がそれほどまでによくないことも、わからない訳では、ないのだ。

 鍾会が自分に直談判してまで苑士を引き抜いていった理由が、仕事の手腕やその隠れた才能も勿論のことながら、鍾会が苑士に恋慕の情を抱いていたからだということをトウ艾が知ったのは、僅か一月程前のことである。正確には聞いたのだが。他ならぬ鍾会自身の口から。

『苑士について知っていることを洗いざらい吐け。どんな些細でくだらないことでもかまわない。全部吐け。今すぐ吐け。この私がこうまでして頼んでいるんだ、まさか断るなんて言わないでしょう?』

 珍しく彼からの誘いで設けられた食事の席で、終始上から目線の尋問口調でそう詰め寄られた時には正直何事かと思ってしまった。
 何しろ半ば無理矢理に近い形で鍾会の元に引き抜かれて行った苑士が、異動直後からその日に至るまでの数ヵ月、郭淮もかくやという死にかけの体で過ごしていたのをトウ艾は知っていたからだ。

 ――なんであの人、わざわざ嫌っている私を引き抜いたりしたんですかねぇ。

 虚ろな目で遠くを見つめたまま淡々とそう溢した苑士の顔をトウ艾は今でも思い出せる。最近ではその顔色も精神も安定を取り戻してきてはいるが、一時期はいつか彼が首をくくるのでは、或いは鍾会と刃傷沙汰のひとつでも起こすのではと日々心配していたものだ。

 ところが、蓋を開けてみれば実際はこれである。

 鍾会の苑士に対する意地の悪い態度は全て子供じみた愛情の裏返しであり、鍾会が苑士を引き抜いたのも苑士を側に置きたい、近くにいたいといういじらしい想いからの行動だったのだ。まったくもって傍迷惑な話である。少なからず二人に関係があり、且つ、巻き込まれた身としてトウ艾は心底そう思う。

 ――けれどもまた、こうも思うのだ。
 この二人は根本的に似た者同士であり、それ故にほんの少し相互理解があれば悪くはない仲になれる筈なのだと。
 苑士には口が裂けても言えないことであるが。

「トウ艾様、こちらの資料はもう返却しても?」
「ん、ああ……そうだな、必要な点は確認したからこれと共に返却を頼む。資料室に向かうなら、ついでにこれを司馬昭殿に届けて来てもらえるか?」
「はい、承りました」
「あぁでは苑士殿、申し訳ないがこれも司馬昭様に」
「こちらの資料も戻しておいていただけるとありがたいのですが……」
「はい、かまいませんよ」
「……一人でその量を運ぶのは大変ではないか?」
「ご心配には及びません」

 ――きっと、親切などなたかがご助力下さる筈ですから。

 トウ艾の机と自分の机から、その他名乗り出た者達から、人一人で運ぶには多い量の書簡をごっそりと抱えた苑士は、にっこりと、どこか邪悪ですらある笑顔を浮かべてそう宣う。
 その直後に続いた「ついでに食事を摂ってきても構わないでしょうか?」という台詞に、トウ艾は黙って手を振ることで答えた。犬猫を追い払うかのような仕草は、呆れているようでもあり、急かしているようでもある。苑士が笑ったような気配がしたが、確かめる気にはならなかった。

「では、失礼致します」

 扉の前で礼儀正しく一礼した苑士が、そのまま部屋の外へと消えていく。扉が閉まる一瞬、慌てた様子でその背を追って行く鍾会を見て、そこで漸くトウ艾は深い深い溜め息をついた。それを聞いて苦笑したのは誰だっただろうか。他の文官達もどこか肩の力が抜けたように見えるのは、それだけ鍾会から発せられる威圧感が凄かったということなのだろう。

「お疲れ様です、トウ艾様」
「ああ、いや……そうだな。皆も各々休んでもらって構わない。苑士が戻るまで、暫し憩おう」
「なんというか……不器用な方々ですよねぇ、お二方とも」
「私、鍾会様を見ていて息子の幼い頃を思い出しましたよ。知人の娘さんにちょうどあんな感じでねぇ」
「素直でないんですよね。意地悪しておいて後悔するんだから」
「そうそう」

 壮年から初老の年代が揃う文官達が、どこか懐かしむような口調で和気藹々と語るのを聞きながら、トウ艾は自分の息子もそんな時期があったなぁとそう遠くはない昔を反芻した。
 そうして思う。他人の恋路に進んで首を突っ込むような真似をしたいわけではないのだが、あの二人のことをどうにも他人事として切り離せないのは、自分の子供の恋路を眺めているような、そんな感覚があるからかもしれない、と。

 トウ艾は、苑士がトウ艾の元に寄越されたその日に尋ねたのだ。鍾会はどうか、と。曖昧な問い掛けに混ぜたのは、純粋な心配と鍾会に対する警戒だった。
 鍾会の苑士に対する感情が負のものでないと知っていても、それで苑士に対する態度が変わらないのでは意味がない。鍾会の愛情表現が素直なものでないことはトウ艾とて認知済みなのだ。引き抜かれたとはいえ元は目をかけていた部下のことを心配する権利はトウ艾にもある。

 もっとも、そんなトウ艾の心配は直後の苑士からの返答によって粉砕されることになるのだが。

『非常に遺憾なのですが、私、最近は鍾会様の気持ちがよく理解できるんです』
『……それは、』
『だって私、鍾会様がトウ艾様に嫉妬している様子を見るのが楽しくて堪らないんですよ』
『は、』
『男の嫉妬は総じて醜いものですが――あの方の嫉妬は、とても滑稽ですが同時にひどく愛らしいとも思うんですよ』

 かつてない満面の笑みを浮かべながらそう宣った苑士を思い出しながら、トウ艾は心の中で鍾会に向けて合掌する。
 それが今まで自分がされてきたことへの意趣返しなのか、鍾会同様――かなり形が異なるような気がするが――素直じゃない愛情表現の形であるのか、トウ艾には判別がつかない。だが、この世には因果応報という言葉も存在する。それが鍾会のしてきたことの苑士なりの報いであるならば、それは鍾会が甘んじて受けるべきものだろう。

「……苦労するだろうな」

 それは苑士のことなのか、それとも鍾会のことなのか。
 一先ずトウ艾は、いかな結末であれ自身に要らぬ災厄が降りかからないことを切実に願うばかりである。十中八九、叶わない願いだと知ってはいるが。

ひどい私を愛していてね