苑士が新しい猫を飼った、らしい。

 らしい、というのはそれを本人の口から聞いたわけではなく、人の噂に伝え聞いたからだ。苑士という人間に限ってそれは珍しくもなんともない噂だ。だがしかし、今回に限ってその噂はいつもよりも人々の話題に上り続けていた。理由は単純だ。苑士がその猫にいたく執心である――と、やけに信憑性のある尾鰭がついていたからだ。
 猫が彼に執心であるということは珍しくないが、彼が猫に執心であるというのは珍しい。しかも噂が広まるにしたがってその猫について探ろうと動き回る人は増える一方だというのに、それが正真の猫であるのか、それとも猫と形容される誰かであるのかすら未だ明らかになっていないのだから、これはもうそれだけの相手だと信じざるを得なくなる。
 人のことは容易く暴いて、一等柔らかい所へと爪を立てて去っていくくせに、自分に関しては何も明かさない。暴かせようとしない。
 与えられた餌だけを綺麗に貪って、撫でさせることすらさせずに消えていく、野良猫のような男。それが、苑士なのだから。

「――どうした、随分機嫌悪いな」

 ほろ苦い、紫煙の香りが甘い酒の匂いに混ざる。ここ最近の彼の気に入りらしい、熟れた果実のような甘い芳香を放ちながらも口にしてみればかなり重たい酒を、ちびりちびりと舐めるようにして飲み下していれば、苑士が紫煙を吐き出しながら不意にそんなことを問うた。
 普通に暮らしているだけでも一日に何度も耳にするような噂を、彼自身が知らない筈がない。だからこそ今の自分の不機嫌を隠すつもりは毛頭無く、その問いには答えないままに、ただ手の中の小さな水面を舐めた。
 久方ぶりの、珍しくも彼の方から持ち掛けられた逢瀬だというのに、気分が下降の一途を辿っているのは他ならぬ彼のせいだ。普段ならばそれこそ飛び上がる程に喜んだだろう誘いは、けれども諸手を挙げて喜ぶには間が悪すぎた。こん、と煙管の灰を落とした苑士は目線だけを私に向けて反応を伺っている。窓枠に腰掛けている私の表情は彼からちゃんと見えてはいないだろう。照明の赤い灯火に仄暗く煌めく瞳にぞくりとしたのは、宵闇の気配が醸し出す恐怖からの錯覚だろうか。
 視線に含まれた無言の圧力にいたたまれなくなって、目線を杯に落とすことで反らせば、夜の気配の中で猫の笑い声が微かに聞こえた。冷たい、嗜虐的な響きだ。その響きにまた背筋にぞくりとしたものが這って消えていった。

「奉孝」

 煙管を卓に置いた苑士が、その手で自分の膝を叩く。それは「おいで」の合図だ。「来い」という命令とも言える。行ってその腕に捕らえられれば、知られたくないことすら暴かれてしまうとわかっていた。だからその言葉に従うつもりなど無かったというのに、自然と彼の誘惑に引き寄せられて動き出してしまう自分の体が疎ましい。
 呼ばれるままに乗り上げた苑士の膝の上は、いつものように濃く染み付いた紫煙の香りがした。そこに他人の痕跡が無いことに安堵して、同時にそんなことを逐一探ってしまう自分の女々しさに辟易する。
 横抱きに膝の上に抱えられて、優しく甘やかす手付きで至る所を撫でられる度に、いつも本物の猫になったかのような錯覚を覚える。純粋に甘やかすための手付きは眠気すら誘って、なのに今はその心地好さに身を任せることが出来ない。
 いつもならば容易く意識を委ねてしまう指先が今は妙に腹立たしくて、手の甲に爪を立てた。それにすら苑士は愉快そうに喉を鳴らすのだから、この人は本当に底意地が悪い。

「俺には言いたくないことか?」
「……わかっているくせに」
「他人の憶測や言葉程あてにならないもんもないからな」

 ――ほら、またそういうことを言う。

 表情を歪めた私を見て、苑士がまた喉を鳴らす。猫にするように顎を擽られ、頤を乾いた指先が滑る感触に、ふ、と息が漏れる。わざとなのか、ご機嫌取りのつもりなのか、いやらしい笑みを浮かべたままの苑士の表情からその意図は伺えない。

「っん、」

 首筋を伝った指が、襟を滑って腰元へ降りていく。背骨に指を這わせ、臀部をやわらに揉んで、太股をゆるゆると撫で擦る。全てを着物の上から施す、焦らすための動き。
 知っている。これは――――ねだらせるための、愛撫だ。
 じりじりと弱い火で炙られるようにして高められていく情欲に、そう長く我慢はしていられない。その先にある快感を知っているから、堪えられなく、なる。
 ずる、い。
 着物に縋りつきながら、けれど這い回る掌を拒むことも出来ずに言った言葉にどれだけの威力があるだろう。くつり、と歪んだ唇が頬に触れ、肌を這うようにして移動したそれに耳朶を食まれると、もう、駄目だった。

「――――猫、」

 吐息の中で震えながら溢したそれは、けれども確かに聞こえたらしい。「……猫がどうした?」。優しく問いただす声が、焦らすものから宥めるものに変わった手付きが、やっぱり憎たらしい。知らない筈がないのに、あくまでも言わせたいのか、と。

「……新しい子に随分と御執心だと聞いたから、ね。私はもう、お役御免なのだと思っていたんだ」

 吸い込んだ紫煙の香りが喉を刺して、僅かに胸が痛む。言って、可愛くない台詞だと思った。街娼のように媚びて縋り付くつもりもなければ恋人面をして泣き喚くつもりもなかったけれど、これはこれでいただけない。
 せめて淡々と、なんでもないように言ってやろうと思っていたのに、背中を撫でてくる手が優しすぎるせいでとんだ誤算だ。

 ――せめて、彼の目に映してすら貰えない人達よりは、特別な存在でありたかったのに。

 焦燥と後悔とが渦巻く胸中を必死で押さえている私をよそに、なにが可笑しいのか、苑士はまた愉快そうに喉を鳴らす。その反応に自然と眉根が寄ってしまうのは仕方がないことだろう。

「……真面目な話をしているつもりなのだけれどね」
「ああ、すまんすま……っふは、は、はははっ」

 徐々に大きくなっていく笑い声に腹立たしさよりまず困惑が浮かんで、着物の上から爪を立てて抗議してやれば返ってきたのはやはり適当な謝罪だ。その不誠実な言葉さえ最後は吹き出した笑いに掻き消される。「……嫉妬深いのもここまでくるといっそ笑えるな」。嘲笑としか言えない言葉に、思わず爪を立てる力を強めた。

「奉孝」
「……なにかな?」
「鳴いてみろ」
「は?」
「猫なんだろう?」
「…………それは、」
「少なくともこの半年、俺はお前以外と関係を持った覚えはないんだがな」

 ――は、と、出そうとした声が音にならなかった。

 刹那の内に頭の中が空になり、思考する力すら奪われたようになにも考えられなくなる。苑士が喉を鳴らす音だけがやけに鮮明に頭に響いた。からかい、弄ぶ時の、意地の悪い響きではない。どちらかといえば、悪戯が成功した子供のよう、な。
 その言葉と笑みの意味を理解した途端に、ぶわりと顔に熱が集中した。じわじわと染みるように広がってくる歓喜と、それを信じきれない疑念とが混ざり合って頭を鈍く痛ませる。「嘘」。咄嗟に出た否定の言葉に、やはり苑士は笑うだけだった。

「随分と信用がねぇんだな、俺は」
「……だっ、て、」
「まぁ確かに、それだけのことをしてきた自覚はあるが」
「…………」
「拗ねんなよ」
「……今更、その程度のことで拗ねたりしないよ」
「眉間に皺作って言う科白じゃねぇな」

 言って、固い唇が眉間に触れると同時に浮遊感が身体を襲った。背中と膝の内側に当たる感触に抱き上げられたことを察して首にしがみつくと、直後に何かの上に身体が投げ出され、間髪入れずに苑士が身体を押さえ付けるように覆い被さってくる。視界の端で、ふっと、灯されていた明かりが消えたのが見えた。互いの輪郭すら曖昧になる暗闇の中、目の前の猫が舌舐めずりをする。

「……なぁ、奉孝」

 低い唸り声のように自分の名を呼ぶその声に、ぞくぞくと肌が粟立つ。白い牙が、僅かな光にやけに輝いて見えた。

「可愛がって欲しいなら、猫みたいに甘えて、構ってくれと鳴いてみろよ」

 ――可愛くねだれば、どろどろになるまで甘やかして、死ぬほど可愛がってやるから。

 至近距離に迫った苑士の唇が、肌が粟立つような色香を滴る程に含ませた声音でそう囁く。直接何かをされたわけでもないのに、全身を刹那の内に駆け巡る甘い疼きに「ぁ、」と小さく声が漏れた。
 真の意味で、甘言とはきっとこのことをいうのだ。
 堅い意思や激情すら瞬く間に溶かしてふやかして、思うがままに相手を操るための言葉。ずるい。その言葉に、声に、ほだされて流されてしまうのをわかっていてそうするこの人は、本当にずるい。

「――…にゃ、あ」

 絞り出すように紡いだ鳴き声に、牙が襟首に立てられた。薄い皮膚に牙が食い込む感触と、鈍い痛み。出かけた悲鳴を遮るように、乾いた指先が開いた唇を擽って、首筋を撫でながら上ってきた舌先が耳朶をねぶる。「猫、なんだろう?」。乱れた裾から足を撫で、内腿に爪を立てながら、囁くようにそう命じてくる苑士の言葉は、なんて恐ろしい脅迫なのだろうか。
 にゃあ、にゃあん、と私が必死に鳴き真似をする度に、至るところに立てられる甘い牙の感触に泣きそうになって、鈍い痛みと羞恥に沸いた熱が快楽の疼きに変えられていく。その感触が心地好くて堪らないのに恐ろしくて堪らなくて、けれど、名を呼ぶことさえ禁じられた今、どうすればその恐怖と快楽の狭間から抜け出せるのかわからなくて縋るように苑士の着物にしがみつく。

「……安心しろよ、もう一生、手離してなんかやらねぇから」

 ――――ずるい。いじわる。ひどい。こんなのひどい。ひどいよ、苑士。こんなの、ひどすぎる。
 私の言いたい言葉は何一つ言わせてくれないくせに、私が欲しい言葉だけはくれるなんて、こんな時に『愛してる』すら言わせてくれないだなんて、ひどいよ、苑士。

だからねこれは愛なんだよ