しとしとと淑やかな音を立てながら雨が降っていた。その雨が長い時間をかけて冷やした、生温いような肌寒いような空気が肌を粟立たせて、空の胃袋から苦い感触を押し上げてきているような嫌な錯覚を覚えさせた。

「姫様は美しかったでしょう」

 雨が冷やした空気のように、冷たいとも温かいとも言えない声だった。自分の声が自分のものでないような気がするのもこの雨のせいだろうか。風のないことをいいことに、雨戸を開け放った窓からいまだ泣き止む気配のない空を見上げる。私の後ろに立ったままの曹丕様は何も言わず、けれどもその視線が私と同じ灰色の空を見つめていることがわかった。

「姫様は、姉上様は、美しかったでしょう。まるで今にもお目覚めになられるのではと思うほどに、死んでいるのではなく眠っているのではないかと思うほどに、美しかったでしょう」
「当然だ。……あれは、私の妻なのだからな」
「ええ、あの方は、生涯貴方様の妻として、誇り高く、そして美しくありましたよ」

 曹丕様が死ねとおっしゃったので、あの方は正しくそうなさった。そんなことをしてもなんの証明にもなりはしないのに、誰も喜びはしないのに、あの方は曹丕様がそうおっしゃったので姫様はその通りに命を絶たれた。一瞬とはいえお辛かっただろうに、なんの苦しみもないかのような安らかな顔をして、姫様は夜に床につくかのように安らかに永遠の眠りにつかれたのだ。

「苑士よ」

 曹丕様が、淡々とした声で私を呼んだ。思えば、ちゃんと名を呼ばれたのはこれが初めてかもしれなかった。声なきままに振り向き目線を合わせれば、そこに在るのは唯一人の男の姿だった。刹那、目の前の人間が誰であるのかがわからなくなった。そこに在るのは男の姿だった。威風堂々とした風格もなければ、いつものように冷たく感じるような鋭い空気も持たない、ただの。

「苑士よ、」

 もう一度、確かめるように名前を呼ばれて、私は目の前の男を見つめた。縋るような眼差しだった。そのくせ、伸ばされた手を撥ね付けているようにも見える。駄々を捏ねる子供みたいだ。或いは、母とはぐれて泣いている迷子のようにも思えた。

「苑士よ、」
「……はい」
「お前は、私を恨むか」
「何故にございましょうか」
「私はお前から甄を奪った」
「恐れながら曹丕様、それは間違いにございます」

 姫様は、最初から貴方様唯一人のものでした。貴方様を恋い、貴方様を愛し、貴方様を想い、貴方様の愛に殉じて死んだのです。

「お前はどうする」
「どうする、とは?」

 背中にひやりとしたものが伝った。雨が吹き込んできたのかもしれないし、冷えた空気が布の間に入り込んで背筋を撫でただけかもしれなかった。

「もうこの世に甄はおらぬ」

 どうでもよかった。目の前の誰かもわからぬ男の言葉など。姫様に関わりのないことなど、私にとって細かな雨の一粒以下の些末なことでしかなかった。だから何も答えずにいれば、目の前の男はふと私の背後、灰色に閉ざされた世界へと目を逸らした。

「お前と甄はよく似ている」

 それはそうだ。私と姫様は血を分けた姉弟なのだから。自嘲するように笑った男が、姫様の命を奪った刀を、姫様のような美しい刀を、私に向かって差し向ける。白い刃は灰色の世界にあっても目映く光輝いていて、その美しさが血の気の失せた姫様の肌を思い出させた。

「死ぬのだろう、お前も」

 ふと、刃から目を移すと、目の前には姫様の愛した曹丕様が立っていた。死ぬのだろう。その言葉に、私は静かに頷いて答えた。姫様を失ったこの世界に私が存在する意味などありません。姉上様が居なくなったこの世界に私がいる場所などありません。私にとっての最上であり唯一を失ったこの世界に、最早私にとっての存在理由はありません。ええ、姫様は喜びはしないでしょう。あの方が愛した貴方でなければ、あの方にとって喋る葦と思うことすら浅ましい。ですが、ねぇ曹丕様、貴方様があの方をお迎えにあがるまで、一体どれ程の時間が要るのでしょう。貴方様が覇道を成し遂げ、いつも通りの不遜な態度で姫様をお迎えになるまでに、一体幾つの昼と夜を越えなければならぬのでしょう。

「私でも、煉獄にて貴方様を待つ慰みにはなりましょう」

 曹丕様は、ただ笑った。それは口角を持ち上げ僅かに瞳を細めるだけの笑顔というには弱すぎる微笑であったけれど、けれどもそれは曹丕様の精一杯の笑顔だった。

「さらばだ、苑士よ」

 私が逝くまで、甄を頼むぞ。その言葉を合図に、私は自分の首筋へと姉上様の形見の刃を滑らせる。くらりと頭が揺れ、身体から急速に力が抜けていく。視界が暗くなるまでの刹那に垣間見た窓の外の景色には、いつの間にか鮮やかな色彩が戻っていた。

命こそが僕の愛なのです