冬の寒い日に、森の中で獣を拾った。
 血と泥とよくわからないものにぐちゃぐちゃのどろどろに汚れていたそいつは、使い古した布巾のように傷だらけのズタボロで、けれども俺を睨み付ける瞳がどこまでも気高く、美しかった。

 そいつを拾ったのは気紛れだ。獣は手負いであるが故に俺をひどく警戒していたが、体の消耗がそれ以上に著しかったのか、そいつを抱き上げた時から家に帰るまでの間、特に抵抗はされなかった。
 唯一ひどかったのは泥だらけのそいつを洗おうと固い皮を剥ごうとした時だ。どこにそんな力が残っていたのか、最終的に薬を盛って昏倒させてから色々とやらざるを得なくなったのだから獣の底力とはまこと恐ろしい。特に鳩尾に受けた痣は長く消えず、ことある毎に痛んだが、それを利用すると獣は途端に大人しくなったので世話はしやすくなって助かった。

 美しい獣は、逞しかった。
 一晩ぐっすりと眠っただけで見違えて元気を取り戻した獣は、よく食べよく眠りよく働いた。特に狩りの腕前は一流で、倍の身の丈はあろうかという熊を仕留めて帰ってきた時にはそいつを拾った時以上に驚いた。これなら暫くは食事に困らないだろうと思う量の肉が三日ともたずに獣の腹に収まってしまったことに対してもだ。「食える時に食っておかねば、いざという時に動けないだろう」、とは獣の台詞だ。はたしてこの獣は、食うために動いているのか、それとも動くために食っているのか。獣に『もしもの時の備え』という概念があることに先ず驚いたが、そう言った後の獣は決まって寂しそうな顔をして遠くを見つめるので何も聞くことは出来なかった。

「明日、ここを出ていく」

 獣が何かを覚悟した目でそう宣ったのは、獣を拾ってから二月が経とうという雪解けの頃だった。「そうか」。そう答えた俺に、獣は「世話になった」と頷いて返す。暖炉にくべた薪がパキパキと音を立てて火の粉を散らす。「君、行く宛はあるのかい?」静かに問えば、獣は「行く宛は無いが、成さねばならないことがある」とそう返した。強い目だった。固く握られた拳が震えているように見えたが、それが寒さから来るものなのか、それとも別の何かであるのか、俺には判別がつけられなかった。

「そうか、それは羨ましいことだね」
「……羨ましがられるような、立派な志ではない」
「命を懸けられる程の激情を抱けることがまず羨ましいんだよ、私は」
「…………お前は、」
「うん?」
「お前は、何故私を助けたのだ?」
「……美しかったから、だよ」

 ああそうだ、お前は美しかった。血にまみれ泥に汚れ途方もなく傷付けられ疲れ果てていても、その瞳だけが強く生きていた。寒風吹き荒ぶ世界に、揺らぐことなく灯る炎のように、熱く、静かにたぎる瞳が、どうしようもなく美しかった。

 拾ったのは、気紛れだった。
 けれど、興味もあった。
 この傷だらけの獣が生来の力を取り戻したら、その時その瞳の輝きはどうなるのだろうかと。
 変わらないだろうか、より美しさを増すのだろうか、それとも、その鋭い輝きを失ってしまうのだろうかと。

「お前は美しかったよ、獣。何も変わらない。お前は気高く、逞しく、美しい獣だった」
「……玲綺だ。私の名前は、呂玲綺」
「……そうか、綺麗な響きの、美しい名だね」
「ああ。……私の、父がくれた名だ」

 そう呟いた獣は、静かに唇を持ち上げて笑った。初めて見たその笑顔はどこか切なく、儚くて、ああこの獣は雌であったのかと俺はひどく今更なことを思ったのだった。

想いは何処へ行くのか