「この大嘘つきめ」

 そう拗ねた口調で言えば、目の前の男は困ったような、けれどどこか嬉しそうな顔で笑った。長い遠征の疲れが滲んだ表情は、けれども旅立つ前のような死にかけの苦しげな様子はなく、寧ろ晴れやかですらある。病をおして戦に挑んで、勝ちを掴んできた挙げ句に状態も回復してくるだなんてとんだ医者泣かせだ。戦馬鹿め。最早お前人間じゃねぇよ。なにをどうすれば戦が薬の代わりになるんだ戦馬鹿め。

「相手が鬼であれ病魔であれ、それが戦であるならば、私は何者にも負けはしないよ」

 いつも余裕綽々なその表情に今すぐ拳を叩き込んでやりたい気分だった。「……つまり、端から俺の心配も存在も不要だったってことだな」。不機嫌を通り越して憤怒の形相であるだろう俺を見て、郭嘉はやはり困ったように眉を下げて笑う。「……そんな悲しいことを、そんな顔で言わないでくれないかな」。私は、貴方のために勝利を掴んで帰ってきたのに。そう言いながら伸ばされた腕を払い除けたのはつまらない意地からだった。

「……ふざけんな、大嘘つきめ」

 何が俺のため、だ。お前の策も、身体も、勝利も、全ては殿のためにしか存在していないくせに。お前を側で守ることも、お前の策のために働くことも、お前の苦しみを理解することも、旅立つ前のお前は俺に何一つ許してはくれなかったくせに。今更どんな顔をしてそんなことを言うんだ。俺のためだと言いながら、俺のために何一つしてくれやしなかったお前に対して、一体、何を言えというんだ。何をしろというんだ。

 俺の想いを理解しながら拒んだのは、お前のくせに。

「……俺に何一つ遺そうとしなかったお前に、今さら語る言葉なんてねぇよ」

 いっそのこと物言わぬ屍になって帰ってきたなら、みっともなく泣き叫んでその身体に追い縋って、絶望のままに後を追うことだって出来たかもしれないのに。そうすることが出来た筈だったのに。
 なぁ郭嘉、死を覚悟しながらも戦に旅立つお前のために、なにもしてやれなかった俺の惨めさがわかるか?側にいることすら許されず、身を案じることすら禁じられて、あまつ独り善がりな笑える遺言もどきまで押し付けられて。そのくせその張本人は出立前より元気になって今目の前にいるときた。冗談にしたって笑えない。あの時の言葉が本気だったとわかっているから、なおのこと笑えやしない。いくら戦は勝利だったといえど、十中八九死ぬ筈だった奴が生還したといえど、こんな状況で笑ってたまるものか。

「……ねぇ、出立の前に言ったことを、もう一度言うよ」
「聞かねぇ」
「貴方が私の言葉を聞いてくれないのなら、私が貴方の言葉を聞く道理もないと思うけれど」

 にこやかに揚げ足をとって俺の口を塞いだ郭嘉が、再度伸ばした手を拒めなかった。せめてと反らした視線は冷たい掌に引き戻されて、幸せそうなのに悲しそうな、矛盾したそいつの顔を直視せざるをえなくなった。長い睫毛に縁取られた瞳が濡れながら震えている。まるで、雨の中に捨てられた子犬のような目だ。不安げに縋るようでいて、その先の結末を理解して信じている傲慢さがある。

「ねぇ、苑士」
「聞かねぇっつってんだろ」
「苑士、」
「言うな」
「私は」
「言うな!」
「――私は、貴方を愛しているよ」



『――私は、貴方を愛していたよ』



 出立の時は過去形だった言葉が、今では現在形だ。震える声がそう紡ぎ終えると同時に、濡れた瞳からとうとう雫が一粒こぼれ落ちた。お前本当にふざけんな、なんでお前が泣くんだよ、本当に泣きたいのはこっちの方だよ。本当に、なんなんだ、なんなんだよ。

「……お前のことなんか、忘れていいんじゃなかったのか」
「……だめ」
「答えは要らないんじゃなかったのか」
「折角生きて帰ってこれたのだから、聞かせてほしい、かな」
「……お前本当にタチ悪ぃな」
「命を賭けて掴んだ勝利なんだから、これ位のおねだりは許されるだろう?」
「なら身を引き裂かれるような思いでお前の帰りを待ってた俺の心労に対する賠償は?」

 口から滑り落ちた本音は、情けなく掠れて湿っていた。「……心配、してくれたんだね」。嬉しい。相変わらずはらはらと涙を溢しながらも破顔した郭嘉が、そのまま凭れかかるように身を寄せてくる。寄り添うその身体は温かく、そして儚くて、けれども抱きすくめたその存在は確かなものだった。

 夢じゃ、ない。幻でもない。
 こいつは確かに、生きて、帰ってきたのだ。ここに、いるのだ。
 たったそれだけのことに、震えるほどの歓喜と安堵が爆発したように全身を駆け巡って堪らなくなる。

「……俺だって、お前を愛してるよ、畜生……」

 背中に腕を回してきた郭嘉が、涙声の俺のその台詞を聞いてくぐもった笑い声を上げた。
 素直じゃない、だなんて、お前が言えた義理か。馬鹿。

ひどい話をしよう