永久凍土に埋もれたい。 それは甘いものが食べたいだとか部活に行きたいというようなものと同等のように、実にあっさりとぼんやりと零されたものだから、反応が些か遅れた揚句俺は自然と「そうだな」と相槌さえ打ちそうになった。いやいや、待て俺の思考。今のは流れで言葉を返すようなことじゃないぞ。流れでなければ言葉は出ないような台詞だったが。 百歩譲って今が真夏であったならば暑さからの逃避から来るものかと納得できたが、今は暦上も気象も真冬真っ只中だ。冬将軍の闊歩するこの時期に、一体彼の胸中に何が起きたというのだろうか。 出来る限りの早さで様々な可能性を逡巡した後に俺が起こした行動はというと、窓を開けて換気を行うことだった。濁った空気の中では思考も鈍る。それが関興の言葉に対する正解でないということは行動するより先に気付いていたが、それでも開けた窓から入ってくる冷たく澄んだ空気は、火照った体を心地よく冷やし、悶々としていた意識を静かに落ち着けてくれた。 で、とそこで初めて俺が振り返ると、関興は先程と同じ姿勢同じ表情同じ声音そのままに、同じことを繰り返した。 「永久凍土に埋もれたい」 「……唐突だな」 「無理だろうか」 「無理っつーかなんつーか…」 首を傾げて見せた関興に返す言葉はやはり思い付かない。無理かと問われて可能性は否定出来ないが、やはり今ここでそんなことを口にする意味がわからなかった。沈黙を肯定ととったのか、関興は「無理、か」と呟いて机に突っ伏す。そのままあーだのうーんだの唸り始めたので、もしや熱でもあるのかと手を伸ばせば「違う」と剥き出しの額に触れるより先に否定された。 「熱じゃなきゃなんだ」 「…何がだ?」 「支離滅裂とまでは言わないけど、なんかおかしいぞお前」 「…どこが?」 「…いや、そう聞かれると逆に困る」 腕組みしながらそう答えれば、関興は机に額を付けたままくすりと笑った。 背中に窓から吹き込む風が当たる。冬の外気に負けじと働き続けているストーブの温度表示を見れば十三度を指し示していた。これ以上無駄な資源を使うのも悪いかと窓を閉めるために関興に背を向ければ、苑士、と小さな声がかかる。 「…なんだか、凍りたくなったんだ」 「…凍りたく?」 「ああ」 段々と近付いてくる声には振り返らずに、真っ向から冷たい風を受ける。冷えていく肌を感じていれば、そっと、関興が背中に擦り寄ってきたのがわかった。顔と、掌と、肌が触れているそこから体温がじんわりと伝わってくる。関興がこういった戯れをするのは珍しいことだったので、特に抵抗することもなくされるがままになっていれば、背中を撫で付けていた腕が腹に回った。 抱き締めるとまではいかず、男女がチークダンスを踊るときのようにそっと巻かれた腕。そこはかとなく艶やかな動作は一体何を示唆していたというのか。 「……裏切り者は、氷漬けにされる」 「…また話が飛んだなオイ」 「…そうだろうか?」 「まぁ、言わんとするところは理解したけどさ」 「そうか」 すり、と俺の肩で一度頬擦りをした関興のさらさらと流れる髪の感触がこそばゆい。そのむず痒い感触を誤魔化すように窓を閉めると、ぱしん、と思いの外大きな音が響いた。 外はもう夕暮れを通り越して宵闇に閉ざされている。時刻としてはそこまで遅いわけではないが、早く帰らなければと焦燥に駆られる気がするのは漆黒の闇に真相意識の何処かで恐怖しているからなのだろうか。 地獄の底のコキュートス。サタンの氷漬けにされたそこは僅かな光さえも届かない暗黒の世界だ。地獄で最も重い罪は裏切りだという。では、己の意思に従い孤独になることと、己の意思を曲げてでも安寧を得ることと、一体どちらが正しい選択であるのだろうか。 腹に回された腕を撫でると、それが思いの外冷たくなっていて思わず眉をしかめてしまう。冷え性なんだ。問い掛けるより先に返った小さな声。俺は「そうか」とだけ答えてその手を握った。 彼が凍るなら、この手からだろうか。そんなことをぼんやりと考えていると、俺の思考に感付いてか否か、関興がまたくすりと笑った。 「……その場合、凍るのは俺じゃないか?」 「いいや、違う」 「なんで」 「……きっと、私だけだ」 俺を抱く関興の腕に、少しだけ力がこもる。 「…どうしようもないことだとは、わかっているつもりだ」 「うん」 「苑士が決めた道を、邪魔したいと思っているわけでも、ない」 「うん」 「……でも、心の何処かで、行かなければいいのに、行けなくなればいいのにとも、思っている」 「……うん」 それは、当然の葛藤だった。幼い頃から実の兄弟同然に育ってきた相手が、ある日突然、容易く手の届かない所に居なくなろうというのだ。それも、なんの相談もなしに決断されて、全てが決まってしまった時にそれを知らされて。離れがたい気持ちも、その決断を咎めたくなる気持ちも、十二分に理解出来る。 するりと、まだ冷たいその腕が離れていく。腰回りにはまだ抱かれていた感触が残っていて、その違和感とも喪失感ともつかないなにかに少しだけ切なくなった。 苑士。 甘えるような声が、背中に響く。 「……行かないでくれ、どこにも」 震えた声にはっとしても、振り返ることはしなかった。やがて、関興が踵を返し、歩き出す音がした。教室のドアが開かれ、閉じられる音。リノリウムの床の擦れる音が段々と遠ざかり、いつしかそれが聴覚の限界に至って聞こえなくなる。 俺だけになった教室に、ごうん、と古い灯油ストーブが音を立てる。 俺は曇り始めた窓に手を伸ばして、結露の水滴をそっと指先でなぞった。摩擦の少ない指はなんの感触も感じさせず、やがて溜まった水滴が張力に耐えきれず、つぅっと硝子の表面を垂れていく。 「……涙、みたいだ」 凍りたい、と言った彼の気持ちが今更になって理解出来た気がして、なにも見えない静謐とした暗闇を目にしたまま、俺は一人自嘲するように笑った。 寂として声なし |