――、ん?
――シくん。
「カカシくんてば!」
いきなり大声で名前を呼ばれて、意識が引っ張られるような感覚。
目を開けた瞬間、ここがどこで、俺は何をしているのか分からなかった。はっとして辺りを見回すと、ナルトを箸に挟んで丼片手に四代目が怪訝そうに俺を見ている。
俺を呼んだのはこの人か。
「大丈夫かい、カカシ?」
心配した様子で問いかけるが、それに答えずに俺は自然と状況把握を始めていた。
任務の報告の帰り、四代目に誘われて馴染みの屋台で名物の味噌ラーメンを食べていた。よし、ここまでは間違いない。で、世間話に花を咲かせているうちに何かを訊ねられたのだ。
食べることに夢中だったのか何なのか、ぼーっとしてしまった俺はその台詞は聞こえなかった。任務帰りでもあったし、ひょっとして疲れているのかもしれない。
「あ……えっと、何の話でしたっけ」
「聞こえなかったかな」
ひょいと口の中にナルトを放り込むと、あまつさえも行儀悪く噛みながら喋り出すのは火影已然に忍としてどうかと思う。クシナさんに怒られるよ、先生。
「カカシは夢とかないのって言ったんだ」
ごくんと飲み込んだ後、いつも通りのはつらつとした口調のお陰で今度こそその意味を理解した。
けれども、わざわざ訊ねた彼の期待には応えられそうにもないと思った。忍になった時点で輝かしい夢とか未来とか、そんなものとは無縁だと考えていたからだ。
「夢……は特にないですね」
「そ、そうなんだ。じゃあ将来なりたいものとかは?火影になりたいとかさ、君の年頃ならそういうこと考えたりす、」
「もう忍になってますしね。それに火影になりたいと思ったことありませんよ」
「えええ!」
箸で持ち上げたラーメンがつるりと丼めがけて落ちて、スープが跳ねる。高温のそれは指に勢いよく付着して、あちっと彼には全く似合わない声を上げた。
ああもう何やってんだか。
心の中でそうぼやきつつ、彼にすっと紙ナプキンを渡した。ついでにテーブルにまで跳んだスープ数滴を拭き取っていると、四代目は何故か目線を人がいない方に逸らしていた。
「どうしたんです?」
「そ、それは常日頃から俺を見てきたからこその発言なのかい……?」
「は?」
聞き返すと、彼は叱られた子供のような顔をして俺と目を合わせる。
「俺みたいなのがなっちゃう火影になりたい訳がない、よね。そういう意味なんだよねカカシ……どうせ俺なんて、俺なんてえええ!」
「違います!落ち着いて四代目!」
頭を抱えてラーメン屋で叫び出した四代目火影の図は流石に里の沽券にも関わってくるのですぐに遮った。
それに、彼の言ってることは間違っている。先生がどうあろうと関係なく、俺は火影になる気はなかった。そんなこと考えたことすらなかったのだ。
「ま、俺は元から火影には興味ないんで」
「そ、そうなの?」
「はい」
俺が頷いた途端に彼の顔は輝き、心の底から安堵していた。けれどもすぐに、ん?と眉間に皺を寄せて腕を組む。俺の発言に安心はしたものの、疑問は感じたらしい。
「でもさ、自分で言うのもなんだけど火影って里の英雄だよ?男の子は一度は憧れるものだと思うけどなぁ」
かく言う俺もその一人だけどね!と明るい子供みたいな笑顔を見せたかと思うと、煮卵をぱくんと口に含んだ。
歯が光っていると錯覚するほど眩しすぎる笑顔は濃ゆい誰かを連想させる。ああ、この人熱血っぽい節あるもんな。
「俺の目標はあくまでも父だったから。先生には悪いけど考えたこともなかったんですよね」
「でもそれはそれでいいよね。そっか、火影じゃなくてお父さんが目標か……」
目を細めて感慨深げにお父さんという単語を呟く彼の姿に、ふとあるおめでたい出来事について思い出す。
「そういえばもうすぐでしたっけ。息子さんが産まれるの」
「ん!そうそう!男の子なんだ。だから俺もそう言われたらいいなって」
ぱぁっと弾けるように笑ったと思うと、一気に彼から幸せな雰囲気が溢れていく。彼の中ではクシナさんと息子さんと、三人で家族一緒に過ごすきらきらとした未来が広がっているのだろう。
この前夫婦揃ってクシナさんの懐妊を知らされた時は、二人の表情にこっちまで嬉しくなったものだ。弟子としても、師の幸福は本当に喜ばしい限りだ。
両親も俺が産まれると分かった時はこんな表情をしていたのだろうか。そう考えると胸が詰まると同時に暖かな何かによって胸が満たされていくのを感じた。
なくしたものではあるけれど、家族というのはやはりいい。
「俺、次の火影はカカシくんかなぁってぼんやり決めてたんだよね」
感傷に浸っている時にどこからともなく吹っ飛んできたその言葉に一瞬耳を疑った。
「え?」
反射的にラーメンを食べる手も止まってしまう。
その役職について意識したこともなかったものだから、先生の発言は俺にとって斜め上のものだった。
「だけどやっぱり親としては息子にもやってもらいたいんだよ。父ちゃんみたいな火影になりたいってね!こういうのを親馬鹿って言うのかな」
一人喋って一人照れている百面相は置いといて、彼が結局その考えに落ち着いていることに安心していた。そしてラーメンを食べるのを再開した。
俺に火影なんて里の最重要人物が務まるはずがない。先の戦争で部下も死なせてしまった、そして今では暗殺ばかりを担う木の葉の暗部だ。里を守ることに繋がるだろうと所属することに同意したが、それは所詮表舞台に立ってはならない裏のものばかり。つまり、汚れ仕事だ。そんなことばかりをしている俺がやっていいものではない。
それに、俺は友を殺した。つまらない意地を張って、仲間より掟が大事だと友が死ぬきっかけを作ったのだ。火影は木の葉の里、ひいては火の国に住む全ての人間の命を背負うことになる。俺はそれに見合う人間などではないことぐらい身に滲みて分かっているつもりだ。
四代目は産まれてくる子供に沢山の希望を見ているらしい。それでいいと思った。
「息子さんは貴方とクシナさんの子供なんですから俺なんかよりよっぽど適任でしょう。ま、貴方がどう考えていても俺はないでしょ。やる気ないですし。何より俺は、」
「ねぇ、カカシくん」
無意識のうちに早口でまくし立てる俺を遮って、彼は優しげな声で名前を呼んだ。ラーメンをすっかり食べ終わった四代目は箸を丼に置くと、ずずいと俺に顔を近付ける。
「俺はね、小さい頃はただ漠然と火影になることを夢見てたんだ。一番強くて、一番格好いい里の英雄になりたいって。けど、大事な人がいなくなったり、新しい命が産まれるのを目撃するうちに徐々にそれは変わっていった。里を守る存在である火影になりたいと思うようになったんだ。それは今も変わらないよ。俺はみんなを守りたい。それが俺の願いで、夢で、火影とはそうあるべきと考えてるんだ」
力強い光の篭もった碧眼と、里全てを包み込むような笑顔が視界いっぱいに広がった。
「君の目標は英雄であるサクモさんだと言った。君は里を守りたいと言った。だからね、カカシ。俺は自分が間違ってるとは思わないよ」
そんな、遠い昔の夢を見ていた。
ぱっと目が覚めた時にはあまりにも頭の中に鮮明にその余韻が残っているから、まだ四代目が生きていたあの頃なのだと錯覚しかけたほどだった。あの人はいないのだと悟った瞬間に胸の中から一気にいろんなものが抜け落ちて、俺の意識はようやくこちらに戻って来れた。
月明かりだけを頼りに、ベッドに置いた時計を見ると、三時ぐらいを指している。
任務の帰りに愛すべき部下たちとラーメンを食べに行って、帰って速攻布団に潜り込んだら随分と懐かしい夢を見た。しかもラーメン屋というシチュエーションまで一緒である。ナルトの中の魂が何らかの影響を及ぼしたのだろうかと馬鹿なことを考えてはみたが、その可能性はないに等しかった。
「夢か……」
時計の傍らにあるガキの頃の写真をすっと撫で、溜め息を吐く。
火影になるとかならないとか、確かにそんなことを言われたような気もする。今の今まですっかり忘れていたが、四代目は、俺に火影になってほしいと言った。その目は至って真剣で、冗談で言っているのではないと自然と悟っていた。
では、四代目の歳に近づいた今それを意識するかと言うとやはりない。未だ三代目は現役だし、五代目火影は暫くは必要ないだろう。
だから、その時までにナルトを鍛え上げなければならなかった。
九尾の力の一部解放は何度かあったが、あの凶悪なチャクラから身を守れるぐらいに、あの子自身に潜むチャクラは桁外れに多いのだ。九尾を封印されてようがされてまいが、火影の才は十分ある。名前に籠められた意味の通りに諦めずにただ努力を続ける根性もある。過去に迫害を受けた身でありながらも、大事なものは守ろうとする優しさすら備わっている。
頭はちょっと弱いが、それでも俺なんかよりよっぽど火影に向いていた。
それがあいつの夢ならば叶えてほしかった。叶えてやらなければならない気がした。
大事な人なんか誰もいなくなって、俺に唯一残されたのは本当に四代目の息子であるナルトだけだったのだから。俺が夢を叶えたい理由はそこにもある気がする。
あの子に死んでしまった四代目の影を見ているのは端から見ても明らかだし、無意識に父親のようになってほしいと一方的な想いをナルトに押しつけているのも分かっている。
俺がやっていることは四代目やナルトのためではないのだろう。酷いエゴだ。それを幸いなことに今のところあの子は悟ってはいない。
けど、そんなことどうでもいい。
「四代目、俺の夢は貴方の息子を火影にすることです」
そう伝えたら、あの人は喜ぶだろうか、悲しむだろうか。今ではもう、分からない。