彼らに与えてもらった大切な赤いスニーカーを履いて、通い慣れた道を歩く。
四つ葉町の商店街でラブは有名らしく、おつかいに一緒に行くせつなはすぐに顔を覚えられた。今では一人出歩いていても話しかけられるほどだ。
そうして話しかけてくれる店員たちに、せつなはいつもいつも心を込めて丁寧にお辞儀をする。自然に微笑みがこぼれるほどに、何気ないこのひとときがせつなは好きだった。
この街に住んでいる、住んでいていいのだということを確かめているような気がして。この街に住んでいることが幸せだった。

幸せと言えば、おつかいを頼まれたこともそうだ。
ラブの母親とリビングの掃除をしていた時、彼女は申し訳なさそうにせつなに訊ねた。
その内容を問うと、街の公園にあるドーナツ屋さんまで家族の分のドーナツを買ってきて欲しいというものだった。
それぐらいならお安いご用とせつなはすぐに首を縦に振り、初めてできた母親のような存在に笑いかける。おつかいを頼まれる程度に彼女にとって自然な存在――つまり、娘にも近しい存在へとなりつつあることが嬉しかったのだ。
ラブは今学校の宿題に追われている。今日は午後からダンスの練習が入っているので、彼女としても早く終わらせたいらしい。母親は珍しく必死な娘に感心したのか、手が離せない自分に代わって息抜きにドーナツでもとせつなに頼んだ。せつなとしても掃除がおつかいに変わったことはさして問題でなかった。

そして今ではもうお気に入りの場所になった四つ葉町の公園に辿り着いた。せつなは大きく息を吐き、その入り口に立ち止まる。

おばさまの期待に応えるためにも、このおつかいを無事成功させなければならない。

無意識に手に力が篭もる。今のせつなには並々ならぬ気迫があった。言われた通りドーナツを買って、懇意である店員と談笑して、そして来た道を戻る。シュミレーションはばっちりである。

しかし、その公園で大量のドーナツを食べる男を見て、せつなは愕然とした。
想定外のものがそこに在ったのだ。
無駄に大きな体躯、ふさふさとした動物の毛のような金髪。
見間違えるはずもない、かつての同胞。

「ウエスター!」
「んぁ?」

呼ばれた張本人はドーナツを美味しそうに頬張ったまま、間抜けに振り返った。

「……」

ドーナツを咀嚼するのを止めることなく、名を呼ばれた男は目を真ん丸にしてせつなを見つめていた。他に客もいない今、ドーナツを噛む音がよく聞こえる。とりあえず口の中に入っているものは十分に味わいたいらしい。相変わらず危機感のない。せつなは敵ながらに彼の今後がとても心配になった。

「イース!何故ここに!」

ごくんと飲み込まれた後にそんなことを言われても何の迫力もない。どうせサウラーに黙って任務をサボってでもいるのだろう。山盛りのドーナツを前にすると、そう判断されるのは仕方のないことだった。

「それはこっちの台詞よ」

適当に返事をしながらその横を通り過ぎ、ドーナツ屋の店主に話しかけた。

「カオルちゃん、ドーナツ4個ある?」
「いやぁ、丁度彼の分で切らしちゃってね。今揚げてるからちょっと待ってて」

苦笑しながらウエスターを見る彼は、お客さんにあんなに喜んで食べてもらっていることが嬉しいのだろう。公園のオープンスペースで暢気にドーナツを食べまくる男は、知られはしないがこの世界の敵だ。せつなたちが倒すべき相手だ。でも、彼にとってお客さんは皆平等で、誰も彼もを受け入れる。だから腹の底から沸き上がる苦々しい気持ちを彼にぶち撒けることなど出来なかった。
ただ分かったと言いながら振り返り、息を吐く。

ウエスターさえいなければすぐにでもおばさまにドーナツを届けられたのに!

そしてこちらを窺っていたウエスターをキッと睨んだ。途端に叱られた子供のような目をして、食べるのをぴたりと止める。睨まれた理由も分からず焦ったようにきょろきょろと辺りを見回した後、彼はせつなにドーナツを差し出した。正直意味不明だった。

「た、食べるかイース」
「いらないわ」

一蹴すると、そうかと悲しげに呟いて手を引っ込め、そのままドーナツをかじる。見なくても分かる光景には興味も示さず、せつなはウエスターが座っている机とはまた別のところに腰を下ろした。

「………」
「………」

ぱちぱちと油が跳ねる音がする。ドーナツが揚がるのを待ちながら、せつなは何をすることもなくぼーっと遠くを見つめていた。その間もさっきと同じ目をしたウエスターがこちらの様子をちらちら窺っている。彼の視線に些かの鬱陶しさと懐かしさを感じながらも無視しようとしたが、背後から聞こえる情けない声にそれは叶わなくなった。

「イースぅ……」
「何度も言わせないで。私は今はせつななの」

彼の方は見向きもせずに即答する。

「でも、俺にとってお前はイースだ」

それ以上は何も言わなかった。ウエスターは何度言っても分かろうとしない。彼の敵として立ちはだかっても未だ忌々しいかつての名を呼ぶ。彼らの声で紡がれる、イースという名を聞く度に昔のことを思い出してしまう。誰かの幸福を奪っていたことを。今の自分が最も嫌う行為をしていたことを。「せつな」はそれを認めたくなかった故に、「イース」と呼ばれる度に苛立ちが増していた。
そんなことを気付く能力もないウエスターは、なんとか彼女とコミュニケーションを取ろうとぽつりぽつりと話しかけ始めた。

「イース、その、元気…だったか?」
「お陰様で」
「風邪とかは、引いてないか?」
「おばさまが良くして下さるからそれはないわ」
「プリキュアたちといるのは楽しいのか」
「ええ、とびきりね」
「FUKOのゲージを溜めるより?」
「当たり前よ」
「そうか……じゃあ、俺たちといるより今の方がいいのか、イース?」
「それは……」

そう訊かれて、何故か言葉が詰まってしまった。単純な問いにすぐ答えることが出来ない。
何故?

「イース?」
「あ……」

昔のようにずばずばと自分の言ったことを切り捨てていく彼女が初めて言い淀んだ。それが不思議で不思議でつい名前を呼んでしまうと、ウエスターがイースと呼ぶ少女は下へと俯いてしまっていた。

「私は、」

ウエスターたちといた頃より、ラブたちといる今の方がいいのだろうか。プリキュアになってからというもの、忌むべき過去となった「イース」についてせつなは否定してばかりで考えたこともなかった。消し去らなければならない。払拭しなければならない。そればかりだった。
けれども、「イース」でいた頃は自分にとって悪いことだけだったのだろうか。暑苦しくて馬鹿でうざったいウエスターと、根暗で卑屈で引きこもりのサウラー。三人とも全く気が合わず、いがみ合ってばかりだった。けど、ドーナツを食べたり、ウエスターの馬鹿をからかったり、一緒にプリキュアと闘ったり、お互いのチームワークもそこそこ。仲もそんなに悪くなかったはずだ。その証拠に彼らはせつながプリキュアになった時すぐにでも連れ帰ろうとしてくれた。ウエスターは怒ってすらいた。そう考えたら、きっと。

「あなたたちといるのも、悪くなかったのかもしれないわ」

でも、それを気付かせてくれたのはラブたちだ。幸せを知らなかった「イース」に何よりも暖かなそれを教えてくれた。けれど、幸せが確かにあそこに在ったことを気付いたのは「東せつな」だ。

「おお!だったらすぐにでも俺たちの元へ戻るといい!サウラーも態度はあんなだがきっと喜んでくれるはずだ!」

がたんと音を立てて机から立ち上がる。そんなウエスターのきらきらとした碧眼を真っ直ぐに見つめ、首をゆっくり横に振った。

「違うの、ウエスター。そう思えたのは今の私で、イースじゃない。だから私は今がいい」
「何だと……?」

一転して、ウエスターの雰囲気が怒気を孕んだものとなる。それでもせつなは怯んだりしなかった。目の前にいるのはかつての仲間なのだ。

「でも、これだけは分かってほしい。あなたたちから離れたかった訳じゃないの。ただ、離れなければならなかっただけ。幸せを知らなかった私は、教えられて初めてその大切さを理解したわ。私は奪う側でいるわけにはいかなかった。そんなこと、耐えられなかったから」
「じゃあ、もう二度と戻ってくる気はないってことか……?」

ウエスターに合わせて立ち上がり、せつなは彼に向かって誠心誠意を込めて笑いかけた。それが彼女の答えだった。

「イー、ス……」

切なげな笑顔は、正真正銘の訣別の意味だ。怒りは鎮まり、胸にぽっかり穴が開いたような感覚に襲われる。

イースじゃ、ない。

彼が知っていたイースにはないものがそこに在ったのだ。自分の中にいる彼女はこんな風に笑ったりしなかった。冷たくて、他人を見下した嘲笑とか、呆れた笑いばかりで、こんな笑顔なんか一度たりともしたことがなかった。

誰かのために笑うことなんかなかったのにな。

「お前はもう、俺が知るイースじゃないんだな」
「そうね。私はもうイースじゃないわ。私はプリキュア、キュアパッション。あなたたちの敵」

一言一言を噛み締め、覚悟する。かつての仲間を、自分が屠らなければならないことを。それがどんなに苦しいことであってもやらなければならない。
お互いの使命のために。

「だから、最後に一つだけ言っておくわ」

せつなはウエスターに近寄り、最後の一つであったドーナツを手に取った。奪われた張本人はああっと悲鳴じみた声を上げる。そんな彼に向かってせつなはからかうように笑った。

「あなたは馬鹿で愚かでとびきり愚鈍だけど、」
「全部同じ意味じゃないのかそれ」
ぶすっとしながらウエスターは言うが、せつなは気にすることもなく続けた。

「あなたのこと、嫌いじゃなかったわ」

自分から奪い取ったドーナツを食べる彼女は、してやったりと悪戯っぽく笑う。それがまるで遠い昔に見たかのようなイースの姿とだぶり、何故だか目頭が熱くなっていった。本当に、懐かしく感じたのだ。なくなってしまったけれど、確かに今自分の目の前で存在している。
そう考えるとますます視界は霞んでいった。今にもこぼれそうな何かが決壊しそうだ。これはいけない、ウエスターは焦った。そうだ、俺がこんなになったのはドーナツが奪われてしまったせいだ、自分に必死に言い聞かせた。けれどそれもすぐに限界を迎える。

「イースうぅぅ!」

幸せが何か、分かってしまった彼女は最早イースではない。でも確かに記憶はあった。せつなは確かにイースだった。彼女にイースと同じように酷いことを言われたのがその証だ。幾ら馬鹿だと罵られようとそれだけは理解できる。せつなの言葉はイースの言葉。ウエスターは彼女の台詞に胸が一杯だった。
涙ぐんだウエスターの気持ちがなんとなく分かったせつなは、ただ一言だけ呟いた。

「やっぱり、あなたは大馬鹿よ」
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