淡い色のカーテンが中途半端に開き、隙間から窓を通して見える空は、オレンジ、紫から濃い藍色、そして徐々に暗いダークブルーへと変わっていく。
忙しなく鳴いていたカラスも遠ざかり、今はもう車の音しか聞こえない。沸かしっぱなしだった味噌汁の火がぼこぼこと沸き始め、水蒸気が湯気となり昇っていった。立ちすくんでいた俺は、弾かれたように動き出して火を止める。すると今度はガスコンロで足が止まってしまい、どうしようもなくなった。次にしなければならない行為は決まっている。なのに、味噌汁のせいで勢いが止まってしまった。
暑い湯気が眼前を通り過ぎ、換気扇の中へと入る。何となしに、視線を落としてもあるのは当然茶色く濁った味噌汁で。試しに味見をしてみると、進歩したんだな、と思った。相変わらず油揚げはでかいし、玉葱は分厚いが、そこまで辛くも薄くもない。ちらりとキッチンに置かれた物を見て、溜め息を吐いた。これを作った奴に言うときっと喜ぶんだろう。

そして、リビングのテーブルの席につき、キッチンから移動させた問題の茶色い物体を見る。ぼろぼろに破れ、焦げ付きながらもなんとか形成できている可哀想な卵焼き。皿の端々にはちぎれたそれが散乱し、盛りつけようとする意志は全く感じられなかった。持ってきた箸で卵焼きを裂いてはさむ。切り口まで茶色く染まっており、味付けにと入れた醤油が多すぎたのが窺える。じろじろと観察した後、意を決してそれをぱくりと口にした。

「塩辛ぇ」

噛みしめる度に滲み出る塩分が舌を刺激する。口の中に傷があればとても痛そうだと思える程だ。見た目で分かるのだ、それぐらい。この色でこの味になることなど馬鹿でも分かる。卵の味もせず、ひたすら醤油の味しかしない。分かっていた、だから言ったのだ。

『こんなもん食える訳ねぇだろ』

そう、これを作った奴に向かって。確かにあの時名前はほんの少しだけ表情を曇らせて、困ったように笑った。

『そうかな、』

手に持っていた皿の上の卵焼きに目を落として、再びぼそりと言った。

『……作り直すね』
『諦めろよ、んなもん何回やったって一緒だろーが』

名前の声音にはらんだものに俺は全く気付かずに、無駄だと笑った。すると名前は目を大きく見開かせて顔を伏せ、ハレルヤの馬鹿とだけ呟いて家から飛び出して行ったのだ。
呆気に取られた俺は後ろ姿を見送りながら動くことも出来ず、ただただ佇むだけだった。はっとして追いかけようとした時に、沸いていた味噌汁に気を取られ、なんとなく事の発端となった卵焼きが目に入った。それで俺は完璧に歩みが止まったのだ。

思い返すだけで小さく萎んでしまった声や、それが示していた悔しさや悲しみが胸に響く。
失敗は多くてもなんとか形にしようと名前はいつも必死だった。味見を俺に頼んだり作り方を聞いたりと名前なりに頑張っていたのだ。簡単な料理なら出来るようになった。卵焼きだけはまだ苦手だが、覚えた料理の味は俺より旨い。
名前は美味しいものを作りたいのだ。食材に失礼だと言うが、本当の理由は分かってる。いつもいつも、俺のために作っているんだ。
なのに、俺は――

何故ちゃんと見なかった聞いてやらなかった気付かなかった。あの時確かに名前は傷ついていた。無惨な出来映えに改めて落ち込んでいた時に、更なる追い打ちがかかったものだから余計に。

だから、償いというか、俺なりのけじめだ。茶色い卵焼きにまた箸をいれて、口に運んで咀嚼した。何回も何回も繰り返した。やはり美味しくならないし、舌が悲鳴を上げて食べる度に味覚が麻痺をしてくる。それでも箸は止まることはなかった。

「あーもう、本当馬鹿」




放り投げられ、からんと小気味よい音を立てて転がる箸。怒られる行為だろうが、構ってられないのでさっさと立ち上がる。皿にはもう卵焼きの小さな欠片しかない。早く探しに行かなければ。
そんなに時間は経っていない筈なのに空は暗く、危なっかしい雰囲気が徐々に満ちる。夜道を女が一人で歩いて大丈夫なご時世でもないので、余計に焦りが先行する。

だが玄関にて、急ぎ足で靴を履くと同時にその扉はあっさりと開かれて拍子抜けした。お互い一瞬顔が強ばって、気まずい空気が流れようとする。しかし、数年ぶりに再会したような感覚すらする俺は、その空気を無理矢理無視することにした。

「……おかえり」
「た、ただいま……」

目の前にいる名前の手にはスーパーの袋。中には大量の卵が入っていて、大きめの袋がぱんぱんに膨らんでいた。それらをゆっくりと下に置き、俺と目を合わせたのに慌てて逸らしていた。

「卵焼きさぁ、」
「………」
「すっげぇ辛かったぞ」
「食べたの?!」
「ああ。全部な」
「ぜん、ぶ……全部ぅ?!」

返事を聞くやいなや俺の後ろを覗き込み、皿の上に何も乗ってないのを確認する。今度は目をまん丸くしていた。

「かっ、体に悪いよ!高血圧になるから!」
「知るか。お前が作ったんだから気にしねぇよ」
「……さっきと、」
「あ?」
「さっきと随分違うこと言ってるね」

痛いところを突かれ、今回ばかりは何も言い返せない。

「そーだな、」
「ごめん、意地悪言ってる」

自分が言ったことに苦笑しながら、ビニール袋を掴もうとする。それに何も答えずに、名前より先に袋を取った。そのままキッチンに向かい、割らないように静かに下ろす。振り返って名前を見て、入ってくるように促した。




「……悪かった」

間抜けに二人揃ってキッチンに立った後、絞り出すようそう言った。謝るということは、本当に数えるほどしかしたことがない。どんな問題を起こしても謝ったことはないし、そもそも親がいた頃は無茶苦茶はしていなかった。だから謝る相手は大体がアレルヤか名前。この二人には結構な数を謝っているはずなのに、何故か言いにくいし慣れない。けど今回は明らかに悪いのは俺で、名前を傷つけた。謝らなければ筋が通らないという奴だろう。

「……卵焼き、を!」

シンクの上に備え付けられた棚からボウルを取り出そうと、躍起になって名前は背伸びする。手がぺちぺちとそれに触れるが取り出せずにいるのをひょいと取って、名前に渡した。ありがと、と短くお礼を言って、また黙る。名前が何かを言うまで、俺もまた黙って待つつもりだった。なんとか顔だけでも見たかったが、ボウルに映った名前の顔で我慢した。ぼんやりとしていたので、それがどんな表情をしていたのかまでは分からなかったが。

「一緒に作ってくれたら、許したげる」

結局顔は見せずに、名前は俺への可愛らしい罰を告げた。そういや一緒に作ったことはなかったな。暴言の代償がそれでいいのかとは思ったが、そんな考えを悟ったのか、口を開く前に名前は俺に釘を差した。

「あんなの食べてくれたしね。だから、許すよ」

がさがさと音を立てながら卵が入ったパックを俺に手渡す。それから卵を一個取り出すと、さっき考えたことがふと思い浮かんだ。

「名前、」
「うん?」
「味噌汁は、本当に美味かった、から」
「………」
「……それだけだ。ほら、さっさと卵わ、」
「ハレルヤ」
「なんだよ」
「ありがと」

ふわりと、一輪の花に吹き付ける春風のような笑顔。照れ臭そうに顔がほんのりと赤らんでいて、たまらなく可愛い。それが俺に向けられて、意識がそちらにばかり集中する。いつの間にか緩んだ手からは掴んでいた卵がするりと抜け出て、べちゃりと、音を立てて割れていった。二人で顔を見合わせていると、大体同じタイミングで揃って吹き出した。割れた殻も潰れた黄身も無視をして、二人で笑って。そうしてやっといつもの俺たちに戻ったのだった。





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