今頃体育館では卒業式が盛大に行われていることだろう。
日光を遮る腕をさっとどける。3月に見合った、暖かな光がきらきらと辺り一面に降り注いでいた。それは卒業生を優しく包み込み、外の世界に送り出す。肌をそっと撫でる風も、今日という日を祝福しているに違いない。
しかし、財前にとっては生温い以外の何者でもない。卒業という門出を完璧に演出する全てが、無性に鬱陶しかった。



「財前」



それは、今一番聞きたくない声だった。
目を開けるだけでその人物を見ることはなく、また日だまりに溶けるかのように瞼を下ろす。浸りはせず、ただ適応する。
財前がぐっと眉間に皺を寄せたと同時に、上からはくつくつと抑えた笑い声が降り注がれる。後輩の癪に障らぬよう音量は小さめなのに、薄い唇から確かに零れる笑い声は結局隠す気などないのだ。
そういうところが気に入らない。
財前の瞼はますます堅く閉じられる。
それに、癖のある高音はこの空間には相応しくない。流行りのバンドの卒業ソングや新喜劇の曲。耳に届くべきものはいくらでもあるはずなのに。
なんで今なんやクソノッポ。

「財前、起きんねー」
「…………」
「ざいぜーん」「うっさいっすわ」

財前は仕方なく目を開ける。
何の断りもなく財前の隣に腰を下ろした千歳は「やっぱ起きとったったい」と嬉しそうに笑った。

「あんたなんでここおるんすか」
「卒業式抜け出してきたばい」
「は?!」

それを聞いて財前は愕然とし、ばっと空気を切って体を起こした。
先日の歓送会では、散々白石に卒業式にだけは出席しろと、耳にたこができるほど言い含められていたのに。

「信じられへん……」

四天宝寺の卒業式は、校風も相まって当然基本的にふざけている。それでも出席する程度の常識は持ち合わせていると思っていた。
だからこそ財前は驚きのあまり体を起こしたのだ。草が体のあちこちに付いているのも気にならないぐらいに千歳を凝視する。
大体保護者という保護者がずらりと我が子を見守る中、この男はどうやって抜け出してきたのか。

「嘘たい」

財前の頭に浮かんだ疑問を見透かしたように、千歳は笑う。

「正しくは最初っからサボったと!」

悪びれることないその態度に、財前は一気に脱力した。

「死ね」
「先輩に向かって死ねはなかぁ」
「それでも死ね」
「そげん言うたらいけんとよ財前っ」

口を尖らせる千歳に構わず、財前は再び草むらに体を沈めた。すねた声音がまるで子供のようで、また財前を苛々させる。

「あんた卒業式全部サボって何やっとんや」
「今日もよか風吹いとるけんね。しょんなかよ」

仕方ないことあるかい。
財前は隠しもせず舌打ちする。

「そもそも何しに来たんすか。あんたが用もなく俺に会いに来るとは思えへんし」
「んー」

気持ちいいと千歳が言うそよ風が、財前の髪をしならせる。千歳は心地よさそうに目を伏せる一方、財前は真逆の気分だった。
折角卒業式をサボったのに、何故こうも一人の時間を邪魔され、掻き乱されなければならないのか。千歳はいつもそうだった。突然現れては、財前の静かな世界をずかずかと踏み荒らしていく。

「財前こそ、なんでサボったと?」

見下ろす千歳の表情は、逆光となって読み取れなかった。ただ、予想はつく。口元は僅かに口角を上げて、好奇心に満ちた視線が、財前へと真っ直ぐに向かっている。自身の考えと合っているかどうか、答えを求めているのだ。そして恐らく、財前の心は見透かされている。

「…………」

黙ったままの財前に痺れを切らせたのか、千歳はぐいぐいと顔を近付ける。
徐々に鮮明になる千歳の相貌。
目と鼻と、――そして、口。

「白石達見送るんが、嫌やったと?」

やはり、千歳は笑っていた。

「寂しかとや、財前」

いつもと変わらぬ調子なのに、その声だけは脳にまでこびりつく。図星をつかれたのにも、心を読まれていたのにもむかむかと腹が立った。
初めて会ったときから、千歳は無断で人の心を覗き見る。勿論そんな特殊能力ではなく、財前光という個人を理解した上で、状況に見合った財前の思考を予測しているのだ。それは先天的な才能であり、故意ではない。白石や小春も、自分でも納得するほどひねくれた性格を理解するのに1年はかかっているのに。最初から、千歳は財前が一番読まれたくないことを簡単に言い当てていく。
誰に言うこともなく、財前本人にだけ伝えるのだ。

「あんたのそういうとこ、ほんま嫌いやわ」

気にした風もなくくすくす笑って、千歳は「知っとうよ」と言いながら空を仰いだ。財前を一瞥せず、大地に風が吹くように地球が回るように、さも当然のことの如くさらっと返す。その言葉は、どう足掻いても一生敵わないと宣告された気さえした。
響く舌打ち。
しかし千歳は気を逸らさない。
財前も半ば睨みながら空を見上げる。そこにはいつもの空が広がっているだけだった。少し光が弱いだけだ。だから直視していられる、それだけ。ふわふわと空をたゆたう雲を見ても、柔らかな光を放つ太陽を見ても、感慨深い気持ちには全くならない。
けれど、千歳はまじまじと薄い水色の空を見つめ続けている。太陽を雲を空を、しかと目に刻みつけている。
千歳にとって、今日は大阪にいる最後の日だからだ。

「いつ発つんすか」
「明日、かねぇ」

耳や頭に触れる雑草は冷たくて気持ちいい。そこから仄かに薫る草の匂いが鼻孔を擽る。冬を耐え抜いたその生命力に、今財前は触れている。
こうして千歳は自身を取り巻く世界と接していたのだろう。その景色はきっと財前が見るものとは違うのだ。そしてそれはもう二度と理解することも見ることもできなくなる。
考えれば考えるほど苛立ち、財前はごろりと寝返りをうち、目を瞑った。

「だけん、ここに来たったい」
「え?」
「財前に会いに来たったい」

ちらりと空から目を落とし、財前に向かって笑いかける。そういえば、歓送会ではほとんど喋らなかったと思ったところで、再び体を起こした。改めて千歳を見上げる。
誰もが目を剥く身長も、テニスにおいて恵まれた体躯も、千歳の何もかもが財前にはないものだった。だからこそ、何となく疎んじていたのかもしれない。
千歳は財前の黒々とした瞳を見つめながら、にっこりと笑う。

「さよならばい」

ざわりと吹きつける風と共に、別れの言葉は何よりも優しく紡がれる。
瞬間的に、千歳はもう自分に会う気はないのだろうと思った。
ゆっくりと、瞼が限界までこじ開けられる。千歳の笑顔は変わらない。見開いた瞳に千歳を映しながら、いややと、心は素直に拒否をする。何故かという疑問は浮かばないほどに、すんなりと体の隅々にまで馴染んでいく。
財前ははっきりと首を横に振った。

「さよならちゃいますわ」

できる限り、普段通りの笑顔を作る。謙也に向けるような、馬鹿にしていて、ほんの少し愛おしさを滲ませたいつものそれが、財前の精一杯の気持ちだった。

「また会いましょ、千歳先輩」

小憎らしい財前の表情に、千歳の笑顔が一瞬曇る。千歳は決して頷きはしなかった。財前が刹那に垣間見た、少しだけ哀しげな笑み。それこそがきっと、後輩への返事だったのだろう。
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