いつも遊ぶ神社の境内。
 刀も持たず、本殿へと繋がる階段に膝を抱えて座る。額を押しつけ、目を瞑り、無明の闇に身を投じた。
 そこには何もない。光も含めた何もかもが、堕とされ潰されいつしか必ず消滅する。そう考えると怖気がした。

「ねえ、死ぬのってどんな気分?」

 答えてくれるひとは、もういない。







 それは偶然だったのかもしれない。稽古をサボるために時折訪れる神社の境内で、「彼女」に会ったのは。

 あの日は確か、土方に説教されそうになったから慌てて屯所から逃げ出して、いつのまにか神社に辿りついていた。
 そこでは総司より一回り小さい子供が、独楽や鬼ごと、あやとりなど様々な遊戯に興じている。憂さ晴らしに遊んでやろうと近付いていったら、賽銭箱周りに群れる子供達以外に、ぽつんと彼らに羨望の眼差しを向ける少女を見つけた。

「何してるの」

 それこそ総司にしてみれば一つの遊戯だった。暇潰しをしようと思ったからであるし、一人佇む姿が何となく千鶴を想起させたからでもある。 そうやって話しかけた総司に、少女は大きな瞳を真ん丸くして驚いて見せた。幼さばかりが占めた容貌で。齢は十を越えた程度で、まだまだ遊びたい盛りだろう。
 仲間外れにされていて、だからこそ話しかけられたことに驚いたのか。色々思うところはあるが、少女が答えるのを待った。

「…………」

 しかし、ぱくぱくと口を動かすばかりで、彼女は声を出そうとしない。喉を押さえ、懸命に何かを喋ろうとするも、それは総司には届かない。

「口が利けないの?」

 無遠慮に訊ねるが、少女はふるふると首を振るばかり。どうやら彼女は彼女なりに声を出しているつもりらしい。
 その真意はどうであれ、声で話ができないなら文字で話すまで。怪訝に思いながらも、落ちていた木の枝を拾うと、それを使って文字を書くように促した。
 総司の意図を理解した少女は木の棒を受け取ろうと手を伸ばす。それをぎゅっと握り込み、総司が離した瞬間、木の枝は落ちてしまった。慌てた様子で少女が地面にあるそれに手を伸ばすが、掴めない。
 彼女は悲しそうにそれを掴むのをやめ、曖昧に笑った。
 総司は少し途方に暮れたし、さっさと帰りたくなった。

「ソージ!そんなところに一人で何してるの?!」
「……ひとり?」

 くるりと本殿の方へと振り返ると、いつも遊んでいる子供達がこちらを気にしていた。不気味そうにひそひそと総司の様子を窺っている。
 女の子がいるのに、一人とわざと言うような性根の悪い子供達でないことは知っていた。それに、彼らの怖々とした瞳がそうじゃないことを語っている。
 これは、もしかして。
 総司は一つの結論に行き着く。

「ここに誰かいるの見えない?」
「……誰もいないよ?」

 どうやら、自分の隣にいるのは幽霊らしかった。







 幽霊が視える性分ではなかったので、少女の存在は総司の童心をわくわくとさせた。子供達が怪しむのも気にせず、総司は少女を境内の隅に手招きする。文字は総司が地面に書き、伝えたいことがあるなら少女にそれを指し示させた。

「君、名前は?」

――名前 あなたは

「総司。名前はどこの子なの?」

――わからない

「じゃあ、どうやって死んだの?」

――びょうきだとおもう

「……死ぬのってどんな気分?」

 総司は本当に訊きたいことをたくさんあった質問の中にこっそりと混ぜた。一際総司の視線が鋭くなったのを、幼い名前は感づきやしない。それを総司とて理解しているからこそ、彼は訊いた。
 名前はそれきり黙って、何か考える素振りを見せた。頬に手を当て、はたまた額にも手を当てる。しかし、困ったように眉をハの字にして、ゆっくりと彼女の意志を指し示した。

――おぼえてない

 少しがっかりしたのを感じたが、総司は気にしないことにした。
 例え拙い短文でも、情報を引き出していくのは書物を読むようで面白かった。
 得た情報をまとめると、どうやら名前は幼少から病弱で床に臥せっていたらしい。特に産まれたばかりの頃はいつ死んでもおかしくない状態だったようだ。初めて産まれた一人娘だったために、両親は名前に対して過保護だった。しかし、結局一歩も屋敷から外に出してあげられないまま名前は流行病でころりと死に、狭い屋敷しか知らなかったためか、子供達がよく遊ぶと聞く神社の境内にふらふらと無意識のうちに辿り着いたそうだ。
 最初は神に仕える者達も名前に警戒したが、彼女の事情を理解すると警戒をそっと解いてくれた。
 しかし、肝心の子供達は名前に気付いてくれない。最初は物珍しくて眺めるだけでもよかったが、それもやがて飽きた。
 途方に暮れていたところを総司に話しかけられ、今に至っている。

「ふぅん。幽霊にも色々あるんだね」

 名前はこくりと頷いた。

「名前は遊びたいの?」

――あそびたい いろんなところをみてみたい

 頷くだけで意を伝えられるのに、わざわざ文字を使ったのは彼女の切実な望みであるからだろう。
 しかし、物体に触れられない名前の遊びなど限られている。鬼ごと、隠れん坊などは、二人では些か厳しい。
 ならば、それ以外で楽しませる方法があるのではないか。遊ぶだけじゃなく、経験に乏しい名前が面白いと思うもの。
 例えば、見るだけで事足りるものだ。歌舞伎、浄瑠璃、能、島原の芸。最後は違うが、とりあえず挙げるときりがない。むしろ簡単にすぐにでも見せられるものなら、自分のそばにあるではないか。刺激が強すぎるかもしれないが、合わないならそれまで。総司とは縁がなかっただけだ。でも、気に入るならどこまでも魅せる自信が彼にはあった。 総司にしては珍しく、近藤以外の他人のために真剣に考えた。暇潰しから中々どうして面白い遊びを見つけた。もう少しこの不思議な体験に身を寄せていたかった。
 総司の口元がにやりと歪んでいたのを、名前は不思議そうに眺めていた。







「珍しいな、総司。お前自ら平隊士の稽古するなんてよ」
「あんまり鍛えすぎて新八さんみたいに脳味噌筋肉になったら隊士の方々も可哀想だと思って」
「うん、お前やっぱ来ても来なくても失礼だな」

 ぺたりと道場の縁側に座り、汗を拭う永倉を見下ろしながら、総司は木刀を肩に当てる。
 昼からの稽古の番は剣術師範であり、二番組組長である永倉と共に当たることが多いが、総司はいつも逃げ出してばかりだった。他人を鍛えるなどと興味のないことだったし、面倒見が良く、お人好しな永倉に甘えていた。今日はたまたま、名前に稽古を見せるために剣術師範の役目を果たすまでだ。
 まさに永倉の隣に名前がいることを可笑しく思いながらも、総司に一矢報いようと意気込む隊士達ににこにこと笑いかける。
 そんな総司に名前は熱い視線を送り続けていた。手に汗握り、これからの総司の動きを一寸たりと見逃すつもりはないらしい。緊張して総司の剣技を盗もうともしない隊士達よりよっぽどマシだ。

――これじゃ僕の方が見世物みたい。

「ま、そのつもりなんだけどさ」
「何か言ったかー?」
「なんでもありませんよ。じゃあ、いつでもどうぞ?」

 剣鬼・沖田総司に気圧されながらも、雄叫びを上げ、なんとか己を鼓舞する。ばたばたとまるでなっていない足の動きをしながら、一気に間合いを詰める隊士の力んだ一撃をひらりとかわす。がら空きとなった胴にしこたま木刀を打ちつけたら、尻餅をつき、泡を吹いたので別の隊士と交代。
 次の者は間合いを見計らいながらじりじりと近付いてくるが、総司がどう出るか怯えすぎていて、攻撃にいつまでたっても転じない。痺れを切らして軽やかに踏み込めば、さっさと右肩に木刀を振り下ろした。みしりと妙な音がしたと思ったら、腕が上がらなくなっていたので交代。
 鮮やかな捌きで平隊士達を次々としごいていった総司の手腕に、永倉はおーと暢気に見物し、名前は総司が隊士を打ち破るたびに手を叩いて観戦していた。
 稽古に参加していた隊士の体が痣だらけになり、身動きがとれなくなったらそこで終了だった。

――どうだった?

 そういう意味の視線を向けたら、名前は満足そうに笑っていた。それだけで退屈な稽古に参加した甲斐があったものだ。
 そんな時、ふらりと道場に通りかかった斎藤が足を止めた。長い前髪の隙間から見える、濃い群青色の瞳がある一点を凝視する。
 自分を見ているとばかり思った永倉は、不可解とでも言いたげに斎藤を見上げた。

「どうしたんだ、斎藤」
「……総司も奇特な趣味があるのだな」

 斎藤にしれっと言われ、総司は首を傾げた。しかし、斎藤が見つめる方向は名前がいる場所であり、恐らく永倉を見ている訳ではない。それが分かった瞬間、総司はきらきらと目を輝かせた。

「一君、もしかして視える人?」
「他人には見えぬ人間が話しかけてくるのはざらだったが」
「流石一君!だったらさ、名前と遊ぶの手伝ってくれない?」







 何故俺がとぶつくさ文句を言う斎藤をなんとか説得し、事情を聞いて参加してきた視えもしない永倉と共に、今度は屯所内で鬼ごとに興じることになった。 鬼ごとの決まり事を名前に簡単に説明すると、誰が鬼かという話になった。しかし永倉が総司が鬼をするべきと主張した途端、斎藤に名前もその案に賛成する。総司は二三文句を垂れた後、何もなかったようにへらりと笑って同意した。
 道場から降り、総司はすうっと息を吸い込む。

「いーち」

 まずは斎藤、永倉が逆方向に駆け出し、出遅れた名前が焦ったように二人とはまた違った方向に走り出す。

「にーい」

 そこまで数えて総司は面倒になった。

「三四五六七八九十!」
「おあっ、総司ずりぃ!」

 一息で十まで数えきると、飛んでくる文句。しかし、名前だけは面白そうに笑っていた。総司はまず主役である名前を狙うことにした。
 それに気付いた名前は一気に方向転換し、永倉が向かった先へと走り抜けていく。どうやら永倉に目を向けさせる作戦らしい。

「逃がさないよ!」
「嘘だろこっち来んなよ総司!」
「だって名前がそっち行くからしょうがないじゃないですか」
「だああ! 名前ちゃん斎藤の方行け! な?!」

 騒がしいまでに永倉はどたどたと走り抜け、縁側で大黒柱に凭れかかりながら昼から酒を呑んでいた原田には大層嫌な顔をされた。

「何してんだお前ら」
「幽霊と鬼ごっこ」
「はぁ?」

 そうこうしている間に音もなく余裕持って走っていた斎藤に合流する。
 初めぎょっと顔を歪ませたが、すぐに元の無表情に戻り、永倉より前をたたたっと速度を上げて駆けていく。

「それにしても中々やるな、名前」
「本当本当。名前ちゃん速ーい」

 まるで笑い声でも聞こえるかのように、名前は元気に屯所内を駆け巡った。足音も空気を切る音も何も聞こえないが、やはりそこには確かに名前がいる。幽霊なんて儚げな響きは総司の目に映る限りは一切存在していなかった。

「今名前ちゃんどこにいるんだ?」
「新八さんの前だよ」
「なに?! それなら抜く!」

 一気に永倉が速度を上げようとした時、前方に人影が見えた。
 男が振り返った瞬間、紫暗の瞳がぎらりと光り、結った髪が鞭のようにしなったのを総司は見た。黒々とした艶めかしい髪を結い、片手に和泉守兼定を提げた男といえば土方歳三その人しかいない。
 まずいと総司のみが持つ体内の感知器が反応した時には、名前の名前を呼んで方向転換していた。
 土方は既に抜刀している。
 新八と斎藤は走りながらも顔を引き攣らせた。

「総司、新八! てめえら稽古サボって何暢気に走ってやがんだ!」
「まずいぞ総司!」
「奴ならとっくに逃げている」

 永倉がさっと振り返ると、こちらの様子を窺いながらも逃走を図った総司が小さくなっていた。
 呆れて立ち止まった二人に目にもくれず、鬼の副長は走り出す。

「待ちやがれ総司ィ!」
「そんな鬼の形相した人の言うことを易々と聞く人なんかいませんよ」

 からからと総司の笑い声が屯所内に響く。
 その中に混じって女児の声も聞こえた気がして、総司は名前の方を見た。

「あの人、本当に鬼みたいだね、そーじ!」

 小さな女の子の声がいきなり飛び込んできて、思わず耳を疑った。
 想像していたよりもほんの少し高くて、けれどその分可愛らしくもある幼子の声。耳馴染みよく通り過ぎていく様はやはり千鶴にどこか似ていた。
 目を細め、名前へとすっと手を伸ばす。
 自ずからそうした自分を意外に思ったが、今は名前に早く触れてみたかった。握られた手は氷みたいに冷たくて、体温を奪われていくようだったが、走っているうちに気にならなくなった。







 毎日稽古や巡察の合間を縫っては、総司は名前に会いに行った。
 名前は話せるようになった上に、物体にもある程度触れるようになっていた。だから、総司が思いつく限りの遊びをした。ある日は折り紙を飽きるほど折ったし、またある日は名前ができるようになるまで独楽を回した。それは総司の日課になりつつあり、名前との時間が何故だか楽しみにもなっていた。

 しかし、そんなひとときは突然終わりを告げる。

 名前と会って一週間がたとうとした時だった。いつもどおりに神社の境内を訪れたら、その日はたまたま子供達がいなかった。きゃいきゃいと騒ぐ声が聞こえない。空気の音がやけに耳にこびいた。
 違和感がしたと思えば、総司を笑って迎える名前もまた、そこにはいなかった。
 がらんとした、総司以外誰もいない神社の境内。そこがやけに広く思えて、置いてけぼりにされたような気分になる。寂しいを通り越して、彼の感想は空っぽだった。疑問も何も浮かばなかったけれど、暖かくも冷たくもなく、万人を受け入れる生温いだけのそこに無性にいたくなかった。緩く吹きつけ、前髪を揺らす風がこの時だけは鬱陶しかった。名前といる時はあんなに心地良かったのに。
 不思議に思いながら、総司は境内を後にした。
 次の日も、その次の日も名前は現れなかった。







 されど名前という少女との日々は、総司の人生のほんの一部に過ぎない。一日、彼女に会えない日を終えるたび、総司は名前を思い出すことも少なくなっていった。
 彼女との交流も、感覚としては面白い見せ物をただで見に行ったのに近い。その程度だ。そう結論づけると、総司は名前との時間が欠けても即座に順応した。というより、元に戻ったが正しい。土方から逃げて、千鶴をからかい、人を殺す。その繰り返し。他人からしてみれば退屈かもしれないが、剣を振るうことで生きてきた総司にとっては昔から何も変わらない、満ち足りた時間だった。

「総司、あの娘にはもう会いに行かないのか」
「一体誰の話?」
「あの幽霊の娘のことだ」

 本当はあの娘、と斎藤に言われた瞬間に誰のことかは分かっていた。なんだか面倒でとぼけてみたが、斎藤は至って真面目に接する。

「だってあの子、いきなり消えちゃったんだもの。会いに行きようがないよ」

 天の邪鬼な気質は、総司に人を食ったような笑みを浮かばせる。
 斎藤は小さく溜め息を吐いた。

「会いに行け」
「え」
「いいから、今すぐ会いに行け」

 空よりも蒼い斎藤の瞳が、真っ直ぐに総司を捉えている。
 ぱちぱちと、総司は目を瞬かせた。意味が分からず、釈然としない思いが胸を占める。透明過ぎて彼には裏がなく、故に斎藤の意図が全く掴めない。その事実に僅かに苛ついた。
 不器用なまでに実直な斎藤の瞳は好きだけど、好きじゃなかった。自分とあまりにもかけ離れすぎていて。卑屈な性分が惨めになることはないが、ただ厄介だなとは思う。

「……二度と会えなくなるぞ」

 渋々と口を開いた斎藤の台詞を聞いた瞬間に、総司は走り出した。
 斎藤一の言葉は常に正しく、真実であるからだ。







 屯所から神社の境内まで、無心で走り抜けた理由は自分でもよく分からない。ましてや空咳が出るなんて思いもしなかった。
 肺が軋むように痛んで、ごふごふと咳が出た。気管から空気が排出されるたびに肺が揺れ、針で刺されたような痛みが起こる。空咳が落ち着いても、それはじわじわと痛覚を刺激し続けた。生理的に涙で滲む視界を閉じ、胸に手を当てる。
 一つ息をするごとに考える。
 肺に潜む毒はやがて全身を冒すだろう。いずれ刀を握れなくなる日が訪れる。何の役にも立てない、ただの木偶に成り下がるのかもしれない。それだけは嫌だった。あるいは、絶望し、自ら死を選ぶのも同じく病気に負けたみたいで嫌だった。ひねくれた総司の信念は、いずれの選択肢も許さない。
 最期まで戦うと、それだけは心に決めていた。

「そーじ!」

 肩で深く息をして、顔を上げたら、総司を見つけてこれでもかと破顔した名前がいた。

「……名前」

 自分の名前を呼びながら駆け足で近付いてくる。
 重苦しい思考は隅に追いやった。久しぶりとか何故いなくなったかとか言いたいことは山ほどあったが、飛びついてきたからとりあえず受け止めてやった。自分にしてはいやに珍しい。霊に情でも移ったかとこっそり舌を出す。
 いつのまにか肺の痛みは消えていた。

「私もう消えるんだって」
「なに?」
「成仏するんだって、白蛇さんが教えてくれた」

 もうこの世に未練はないからと、明るい笑顔で名前は総司に告げた。
 その事実が信じられなかったのが半分、納得したのも半分。実際会えなかった日々は、名前が成仏したのだと勝手に思っていたため、動揺はほとんどなかった。名前が満足したなら、それはよかったねと他人事のように思った。離れたくないとか、そういう気持ちは全くなかった。遊べなくなるのは少しつまらないだけだ。

「その前に、そーじの質問に答えなきゃいけないと思ったの」

 体を離した名前は、芯の通った瞳できっぱりと言った。
 何のことか思い出せない総司はきょとんと名前を見下ろす。

「だから私は家に戻った。父様や母様に会って、私も思い出さなきゃって」
「それでどうだったの?」

 名前の物言いは核心に触れないながらも、総司は続きを促した。一体自分が何を訊いたか思い出せなかったが、それでも彼女の答えを聞いてみたかった。聞かなければならない気がした。

「二人はちゃんと元気で、私を想って毎日お墓参りに来てくれてた。それで私に語りかけてくれるの。今日は何を食べた、二人でこんな話をした、こんなことをした。紫陽花が綺麗で、私を連れて行きたいねって。色々、たくさん、私が寂しくないように、私に話してくれた」

 ほろりと、幼い少女の頬を一筋の涙が伝う。
 無意識に伸びた手は、名前の涙を拭っていた。

「生きてた頃と、何も変わらなくて、外に出たいと泣いた私にしてくれたように、いっぱいいっぱい、お話をしてくれたの。私は父様も母様も大好きだった。病気を治して、二人と吉野の桜を見て、桜餅を食べるんだって約束したのに、私は……」

 ごしごし、着物の袖で目を擦り、何とか涙を止めようとする名前。涙声になって話がうまく伝わらないと、彼女は泣き止もうと必死だった。
 しゃがみこみ、幼いながらに人に気を遣う名前に視線を合わせる。自分の手の平をそっと押しつけて、名前の涙が止まるまで拭い続けた。
 名前の頬は生きた人間より少しだけ触れた実感がなくて、やはり冷たくもあった。

「そーじの質問に答えるよ」
「どうして?」
「え?」
「どうしてわざわざ僕の質問に答えようと思ったの」

 あの時、君は覚えてないって言ったじゃない。
 総司はもう自分が何を訊いたのか思い出していた。
 狂おしいまでに死者に訊きたかったこと。一体最期とは、死ぬ瞬間とはどのようなものか、いずれ来るその時のために総司は訊いてみたかった。抽象的な意味ではなく、死に向かう者がどんなに苦悩し、どんな気持ちで最期を遂げるのか。
 既に予想はついていて、やはりそれは間違っていないのだと名前の話で悟ったけれど。

「恩返し。そーじが一番訊きたそうだったから」
「僕ってばそんなに顔に出てた?」
「ううん、なんとなくだよ」
「……そう」

 ばつが悪くて、総司は顔を俯かせる。そのまま、彼はぽつりと呟いた。

「名前の、答えは?」

 死者にするにしてはえげつない質問だ。しかし、ロクでもない自分にはぴったりだと総司は自嘲した。
 初めて訊ねた時みたいにへらりと笑って、総司は同じ問いを口にした。

「……死ぬのってどんな気分?」

 総司を見上げた名前は、まるで大人の女のように美しく微笑んでいた。死は等しく人間を成長させると総司が思ったところで、また名前は泣いた。ぽろぽろと声には出さず、後から後から大粒の涙が零れてくる。それを隠しもせず、総司に胸張って答えられると、彼女は悲しいのに嬉しそうに笑った。

「死にたくなかったよ」
「うん」
「生きたかった。いっぱい生きて、綺麗になって、そーじみたいな男の人に会いたかったよ」
「うん」
「白無垢を着て、父様と母様に、今まで育ててくれてありがとうございましたって、お礼、……言いたかっ……うわああああん!!」

 耐えきれなくなって、名前はとうとう顔をくしゃくしゃにして大泣きした。たまらず名前を抱き締めた総司の耳に、嗚咽が響く。子供の泣き声は甲高くて大嫌いだったけど、名前だけは平気だった。
 ぎゅうぎゅうお互いを抱き締めていた時だけは、暖かかった気がした。子供の少しだけ高い体温。速く高鳴る心臓の鼓動。それらが全部伝わってきて、胸が詰まる。こんなに名前は生きたいと望んでいるのに、それは叶えられることはない。
 それはきっと、自分も同じ。

「そーじ、」
「うん」
「会えて、嬉しかっ、た……」
「うん、僕もだよ」
「そーじ」
「なぁに、名前」



 ありがとう、そーじ。



 そう言って、名前は総司の腕の中からふわりと消えた。呆然と空っぽになった空間を見つめていると、不意に襲い来る肺の痛み。

「けほっ、げほ!がはっ!……、っクソ」

 口を押さえた手を見ると、吐き出された真っ赤な血があった。それを確認した途端、また咳き込んでしまう。空気を吐き出すばかりで息苦しくなり、体を支えきれない。ふらつきながらも本殿の階段に座るも、激しい咳は止まらない。手は血で汚れ続け、胸を襲う痛みは総司を蝕んでいく。

「……名前、は、幸せ、だった?」

 あの純粋で綺麗な少女は、何と答えただろうか。彼女の願いの一つは死んだ後に叶った。笑った名前の顔が忘れられない。少しだけでも、名前の役に立ててよかったと心から思う。
 けれど、名前の最上の願いはただ生きたかったに尽きる。
 誰が悪い訳でもなく、ただこの運命を呪う。運命に苛まされる自分が悔しく、どんなに抗ってもそれは情け容赦なく命を摘み取っていく。苦しんで苦しんで、何の前触れもなくふつりとこの世との繋がりが切れてしまう。生きたい、死にたくない、とがむしゃらに生にしがみつくその先には生きてきた中で培った願いや望み、信念があるから。

「クソ、」

 いつか、無念のまま消えていく。そこに幸せなど、死んだ後に叶えられるような望みなどありはしない。少なくとも自分はそうだ。
 名前はそれをはっきりと総司に教え、去っていった。







「沖田さん」

 刀も持たず、本殿へと繋がる階段に膝を抱えて座る。
 そんな総司に、一人の少女が声をかけた。齢は総司よりほんの少し小さいぐらい。くりくりとした大きな瞳が可愛らしいが、その着物は男物だ。高い位置で結われた黒髪が、女のようでいて、男にも見せる。
 総司からしてみれば年頃の少女である千鶴をちらりと見やると、彼はまた顔を膝に埋めた。

「あの、沖田さん」

 そうやって呼んでも、総司はぴくりとも反応しない。
 どうしたものかと千鶴は軽く息を吐いた。
 空が橙色に染まる頃になっても帰ってこない総司を、土方に命じられて千鶴は呼びに来た。いつもなら日暮れ前にはひょっこり帰って来るのに、今日だけは違っていたから。顔に出しはしなかったが、彼とて心配で仕方ないのだろう。
 そんな土方の気持ちを慮ると、千鶴は総司をなんとか連れて帰らなければならないと思った。

「帰りましょう、沖田さん。日が落ちて肌寒くなってきましたし」

 うずくまったままの総司に手を伸ばすと、顔を上げないままぎゅっと握り返された。
 無視を承知でした行為なので、驚いた千鶴は目を見開かせる。それと同時に、総司に何かがあったのだと悟った。自分には決して教えてくれないだろう、何かが。

「千鶴ちゃん」

 爪が肉に食い込むぐらいに握り込まれ、痛みに顔が歪む。しかし、千鶴は声一つ上げなかった。

「千鶴ちゃん、」

 総司の悲痛な声だけが千鶴の耳に届く。
 総司の力はますます強くなる。血が止まりそうになり、手が痺れてくるのが分かる。それでも千鶴は何も言わず、総司が顔を上げて、帰ろうかとへらへら笑うのを待った。
 自分にはそれしかできないから。

「僕だって、死にたくないよ」

 小さく震える総司の手をそっと握り返した。痺れて感覚がほとんどなかったけれど、それでも暖かな総司の手は、彼が生きていることを千鶴に教えてくれた。





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