「不思議なものですね、ザエルアポロ」

 顎に指を当て、少女は宣う。
 手術台にちょこんと座り、足をぶらつかせ、その不思議に対して愛おしそうにふふ、と笑んだ。ごぽごぽと黒紫色が揺らめくフラスコや、ホルマリン漬けになった破面の残骸が酷く不釣り合いな、そんな華やかな笑み。それを湛えた少女は、ザエルアポロのグロテスクな研究室にとって異質な存在だった。
 それもその筈、彼女はザエルアポロが産み出した従属官ではない。第六刃、グリムジョー・ジャガージャックのモノだからだ。つまり彼女は部外者であるはずなのに、いつの間にか研究室内――それもザエルアポロの背後の手術台に腰掛けていた。少し固まりもしたが、自身に気取られもせずに侵入した第六刃の従属官に、ザエルアポロは天晴れと言わんばかりに歓迎の意を示した。

「ビエンベニダ、名前!」

 大仰に手を掲げ、頭を垂れる。名前と呼ばれた少女は彼に応えるように、丁寧に会釈した。

「お邪魔しています。研究に差し支えなければよいのですが」
「君一人いようがいまいが僕の研究に支障を来すことはないさ。それにしても一体僕に何の用だい、名前?解体願望でもあるのかな?」



そう訊ねると、名前はザエルアポロの問いを無視して冒頭の台詞を紡いだのだ。

――おやおや。

 ザエルアポロは一風変わった名前の態度に少々舌を巻いた。

――この僕を無視するとは大層な女だ。

 そもそも、名前とザエルアポロが話したことはあまりない。藍染が名前の解剖及び破壊を固く禁じていたからだ。興味を引かれる対象であったが、ザエルアポロの手中に収めることはできなかった。藍染はあろう事か彼女をグリムジョーの配下にしたのだ。
 調べたい、その秘密を知りたい。しかし、名前の下へと赴いても、見計らったかのようなタイミングで邪魔が入る。
 藍染に囲われる秘密がある、従属官程度の破面――それを解体出来る好機を今か今かと待っていたのだ。
 そして、とうとうその時がやってきた。あろう事か、獲物は自らザエルアポロの許へと現れた。そして完璧に油断している。これを捕まえない手はなかった。

「聞いてください、ザエルアポロ!」

 藍染への言い訳を考えている間に、名前は楽しそうに話を切り出した。
 まるで子供のようだとザエルアポロは拍子抜けした。ピンクの髪を揺らして、どうしたものかと首を傾げる。その拍子にずれた眼鏡の縁を押し上げると、自分の様子をうっとりと観察している名前と目が合った。にこりと花のような笑みを見せつけられ、一瞬後込みする。

――本当に掴めない女だ。

 名前への興味はますます深まるばかりだった。

「何かな、名前」

 懇切丁寧にザエルアポロが答えると、待ってましたと言わんばかりに名前は口を開いた。

「私、グリムジョーの夜伽の相手をしているんです!」

 その告白にはさして驚きもしなかった。全十刃の宮には、ザエルアポロが作った特製の録霊蟲を忍ばせてあるからだ。
 故に、名前とグリムジョーの性行は映像として記録されている。
 淫らに足を開き、悲鳴を上げながら主を受け入れる汚れた性奴隷。グリムジョーにとって彼女はそういう用途の道具でしかないのだろう。戦闘を生業とし、常に前線へと出向くグリムジョーには、彼女の存在など必要ないからだ。

あの男は自身の道具の価値を一寸も理解していない。

ザエルアポロはそういったことからも力で上回るだけの存在を常々卑下していた。
 愚かさは罪だとザエルアポロは思う。名前を有用に扱えるのは自分であるはず。そうは思えど、彼女の存在が藍染の下で働くことに意義があるのなら、彼の人が自分に渡さない意味も合点がいった。
 何よりザエルアポロが気に入らないのは、彼女をグリムジョーに寄越したことだった。

「それは知らなかった。グリムジョーも従属官に何て事をするんだろうね。全く、神経を疑うよ」

 白々しいまでの嘘を吐き、驚いた振りをする。目を伏せ、同情した素振りを見せてやると、名前はきょとんとした顔を作った。その時だけ、名前の表情はどこまでも空っぽで、飲み込まれそうになる錯覚に陥るほどだ。

「どうしたんだい、名前?」

 ザエルアポロが訊ねると、名前は無表情に答えた。

「ザエルアポロはそれぐらいご存知かと思ってました」

 この女にはバレているのだろうか。無意識に険しくなった視線で、半ば睨むように名前を見つめる。それでも彼女からは何の意図も読み取れない。
 ザエルアポロはずれてもいない眼鏡を押し上げた。

「僕だって知らないことぐらいあるさ。だからこそ研究をしている」

 そう返すと、名前は納得したような顔で話に戻った。先程の表情など忘れさせるぐらい嬉しそうに、主との性交について朗々と語り出したのだ。

「グリムジョーは私が何を言おうと自分のやりたいようにやるんです。それは性行為の時も同じでした。拒否をしても、泣き叫んでも、あの人は私を無理矢理犯すんです。でも、私は何も感じません。あの人がどんなに気持ち良くても、私が感じるのは痛みだけ。最近はようやく気持ち悪くなくなったんです。あの人は私が何も感じないのを知っています。知った上で、使うんです。こんな女を。それはもう、不思議で不思議で」

 くすり、名前は笑う。この部屋で初めて見た時と同じ笑みだ。言っている内容とちぐはぐで、滑稽な喜劇でも観賞しているような気分になる。それぐらい、彼女は嬉しそうなのだ。グリムジョーに慰み者にされているにも関わらず。







 その情事とは言い難い光景が、どれほど凄惨たるかも記憶している。
 いつも名前は痛みばかりを訴えるが、グリムジョーは無表情に愛撫を繰り返し、体の各所――特に彼の番号が刻まれた場所である腰にばかり所有印を残し、時には血が流れるほど噛みついた。荒く吐き出される息も、押し殺した声も、絶え間なく襲う痛みのためだ。
 名前の目から生理的な涙が止まらなくなった頃には、グリムジョーはせり上がった自身を挿入するのだ。ただただ、痛がる名前を見て興奮する。
 体の奥深くへと穿たれ、一際高い悲鳴を上げた頃、ようやくグリムジョーは名前に笑みを見せた。恐らくは彼女にしか見せない情欲に溺れた目で、譫言のように痛みに喘ぐ姿を満足げに見下ろしていた。
 名前の膣口は血にまみれ、それにより滑りを増したことで動きに拍車が掛かる。名前の口からはもう既に悲鳴すらも漏れなかった。

――あんな行為を、心から受け入れているのか、この女は。

 吐き気を催しそうになる映像だった。
 下位破面を力で蹂躙し、征服したと勘違いしている。ただ本能に支配された破面など下等にも程がある。
 本能と呼ばれるものどれもが生き残るために種全体に組み込まれたシステムだ。しかし、論理的に思考できる破面にとって、それが堂々と表へ現れるのは利口だとはいえない。欲求に従って行動する姿は獣そのものだ。
 破面はただ他者を貪り喰うだけの存在から進化した。自身の根幹にあった本能すら抑制できる理性を手に入れたのだ。虚の頃に排他してきた死神すらも楽に捻り潰せる力も備えて。
 それ故に、世界という世界に溢れるどの存在よりも崇高で完璧であらねばならない。決して虚のような下等種に立ち戻るべきではない。
 破面とはそうあるべきであり、だからこそザエルアポロは戦いにばかり溺れる者たちを否定した。本能に付き従う者たちを忌んだ。

 再生した音が割れるほどの悲鳴、歪んだ表情、そして苦しむ己が従属官を嘲笑いつつ犯すグリムジョー。
 それはザエルアポロが最も嫌う光景だった。







「理解できないな」

 笑みなどすっかり消え失せたザエルアポロは、剣呑な雰囲気をそのままに名前に向けていた。

「そうですか?」
「ああ、君の頭がイかれていなければね。笑うという感情表現はこの場合不適切だよ、名前」
「そうですか。なら、私は頭がイかれてるのかもしれません」
「そんなこと僕にとってどうでもいい」

 進まない問答に苛立ちを感じたザエルアポロは吐き捨てるように言った。そして手術台に座る名前に詰め寄り、顎に手をかけ、くいと上げる。

「さぁ、答えろ。君は何故グリムジョーに犯されて平然と笑っていられる?まさか愛してるからだなんて馬鹿げたことを言わないだろうね」
「………」
「ぶっ!」

 へにゃりと歪んだ口元から、何か吹き出しそうになったのを名前は賢明に手で押さえた。手の中にザエルアポロに聞かせまいとした声が吐き出される。
 しかし、それも数秒のこと。
 とうとう我慢できなくなった彼女は、観念したように手を外した。ザエルアポロが見たのは名前の笑顔だった。

「あはっ、あははははははははは!!」

 威勢のいい笑い声にぎょっとしたザエルアポロは、瞬間的に手を離した。
 そんなこと気にもせず、なお名前はお腹を抱えて笑っていた。部屋いっぱいに轟く笑い声はいささか不気味ですらあり、狂ったように笑う彼女は今度こそこの研究室に似つかわしい。
 大笑いした名前に対して、ザエルアポロに不可解であり、かつ決して良くはない感情が芽生えたのは確かだった。
 まるで自分を馬鹿にしているかのように笑い続ける女。いや、確かに名前は自分を馬鹿にしているのだ。虚圏一の研究者たる、ザエルアポロ・グランツを。

「笑うな」

 そう名前に向かって言っても、自身の笑い声にかき消されたのか、聞こえなかったように彼女の声は響いていた。

「笑うなと言っている!」

 ぴたり、笑い声は止まった。そして元の表情にさっと戻る。

「びっくりしました。すみません、突然笑ってしまって」

 その素振りを一切見せなかった女が何を言うか、そう吐き捨てたい気分になった。しかし、当面の問題はそこではない。 にたにたと下卑た笑みを貼り付けて、彼女は口を開く。

「まさかザエルアポロの口から愛なんて言葉が聞けるとは思わなくて。一つ確認しますが、ザエルアポロは私が女としてあの人を愛しているという意味で言ったんですよね?」
「ああ、そうだよ」
「それがもう、おかしくて」

 また緩んだ口元を押さえ、名前はくつくつと喉で笑った。

「何故だい?」
「私があの人を、グリムジョーを愛する訳がないからです。勿論女として」
「僕はその可能性を示しただけだが」
「私には確信を込めて言ったように聞こえました。違いましたか?」
「…………」

 名前は性交を受け入れている。例え行為の最中に玩具のように扱われてもだ。自身が使われることに喜びを感じている。それは相手に対して好意的な感情があるからだ。そして、それが恋愛感情であると予想するのが常だろう。
 しかし、名前は違うと言った。ザエルアポロにはそれが理解しがたかった。

「では何故グリムジョーに犯されるのをよしとするんだ?」
「あの人が私の主だからです」

 きっぱりと、名前は答えた。その表情はひたすらに真っ直ぐで、嘘偽りないのが見たままに分かる。

「……それだけかい?」
「それ以上必要ありますか?求められるなら応えます。主に使われるのが従属官であり、それが私の喜びですから。それに馬鹿ですけど、グリムジョーのことは嫌いじゃないんですよ。あの人は決して私達を裏切らないし、見捨てません。役に立ちたいと思えるんです。だから、使ってもらえることが愛おしい」

 胸につかえていた謎が晴れると共に、この女は頭がおかしいのだと思った。誰しもが持つものがなくなってしまっている。
 しかし、それ故に自分の理想にあるとも言える。誠実な自身の心持ちを露わにする彼女は美しかった。愚かな欲に溺れず、確固たるまでに自分自身を保つ姿は誰よりも賢明だ。彼女に相応しいのは自分であると信じて疑わなかった。
 彼女からこうも慕われるグリムジョーに、生まれて初めて嫉妬した。しかしながら、名前は名前であるが故に、身も心もグリムジョーのものだった。それが歯痒くて仕方がない。どうやっても、彼女は手に入らない。
 その事実に愕然とした。そんなザエルアポロの心情を知ってか知らずか、名前はぽつりと呟いた。

「でも、最近夜伽は気持ちいい方がグリムジョーも喜ぶと思ったりもするんです。私、どうして感じないんでしょうか?」

 下品な質問に眉根をぐっと寄せ、溜め息を吐く。
 ザエルアポロは何も言わずに研究室の奥の部屋に入っていった。その後ろ姿を、名前は不思議そうに眺めていた。
 そして戻ってきた時、彼の手には液体の入った褐色瓶があった。神経系の研究の際に出来た副産物のような薬剤。それを投げ遣りにぽいと名前の方に投げた。受け取った名前はその瓶を見つめている。

「それを行為前に飲むといい。そうしたらお望みの状態になれるだろうさ」

 どうやら彼女が自分に会いに来た目的はこのことだったらしい。名前は満足げに笑っていた。きっと主のことを考えているのだろう。
 さっさと出て行ってほしいと思ったから、ついでに質問にも答えておくことにした。

「何故感じないかだって?宣言しておいてやる。君の体は至って正常さ」
「え?」
「本来なら、性行為において感じないはずはない」

 不自由に思っていないことに答えはあるだろうに。

「君は性行為を気持ち悪いとしか思ってないからだよ」

 そう吐き捨ててやると、名前は目を丸くして、初めて驚いた。そして指で大事そうに瓶を撫で、にっこりと目を細めて笑う。
 やはり、この研究室に酷く不釣り合いな笑みだと思った。







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