エアリスはその日も上機嫌だった。
柔らかな微笑みを絶やさず、マイペースに外へ出る準備をし始める。鼻歌も混じり、その雰囲気はさらに明るく彩られた。いつだったか教会に来た小さな女の子が口ずさんでいた、名前も知らない曲。歌詞はよく聞き取れなかったが、静かでどこか荘厳な教会の空気によく似合っていた。それを少し彼女流に変調したものが部屋中に木霊する。女二人が住む家にも、変調のお陰で鼻歌は違和感なく溶け込んでいった。
土をいじるためのスコップやハサミにハンカチをバックに詰め、そして最後に玄関に置いてあった鈍色の汚れた如雨露(スクラップ置き場から拾ってきた)を手に取った。エアリスはこれから自宅や教会の花畑に水やりに行くのだ。
ミッドガルのスラム街には、基本的に日は射さない。それは陽光を阻む上層部のプレートが原因にあった。しかし、自宅と教会の二カ所にだけは珍しく日が当たり、草花が育つことが出来る。日が地面を照らした途端に吹き出す、そんな素晴らしい生命の息吹にエアリスは単純に感動したし、伸び伸びと育っていく姿を美しいとも感じた。彼女は生命溢れる草花が大好きだった。

「あれ?」

それらを想いながら、彼女は玄関のドアをゆっくり開けた。しかしいつもの景色が彼女を待っているかと思えばそうではない。外の花畑のすぐそばで、真っ黒な服を着た誰かが立っていた。黒の服で連想できる人物はエアリスにとって一人だけなのに、今立って花を眺める姿はその人の特長と一致しない。
小柄で、華奢。そして儚げにも映る姿。
あの人は一体誰なんだろう、どういう人なんだろう。立ち止まって考えていると、視線に気付いたその人物はくるりと振り返った。正面からその人物を見て、エアリスは思わず目を見開かせた。

「わぁ、天使!」
「?」

太陽の光を全身に受け、薄めの金色がきらきらと光り輝く。昼と夜が混ざり合う、その瞬間の色をした双眸が無機質なまでの煌めきを湛えていた。生まれて初めて見た紫の瞳と、白金の髪を持つ少女。こんな神秘的で美しい姿をした人を天使と言わずになんと言おうか。
エアリスはうっとりとその少女を見つめ続けた。

だがしかし、彼女はと言うと些か戸惑っていた。エアリスの台詞の意味も分からず、また見つめられること自体慣れていない。それにあからさまな好意が込められた視線に対して、どう対応したらいいのか判断がつかない。だからといって、何もしないのは許されなかった。与えられた任務は忠実にこなすというタークスには鉄の掟がある。それだけは分かっているつもりだった。
まずは監視対象への説明だ。彼女は視線を振り切るように口を開けた。

「エアリス・ゲインズブール?」
「うん、そう」

エアリスは身をぐんと乗り出して答えた。名前を呼ばれたことに喜びすら感じてしまう、そんな声だ。瞳と同様にとびきり澄んでいて、音量に関係なく耳に飛び込んでくる。彼女が歌を歌えばきっとその姿も相まって誰もが笑顔になるだろう。

「ツォンはいないから、今日は私がその代わりに」
「うんうん」
「別にいつもと何も変わらないから、……」
「うんうん」
「………」

突然台詞が途切れたことに、エアリスは首を傾げた。

「どうしたの?」
「……聞いてなかった」
「う、ううん、そんなことない。ちゃんと聞いてたよ」

嘘だ。
聞いていたのは彼女の声であって、彼女が言う言葉ではない。ついつい声に集中しすぎていたらしい。少女は少し眉を顰め、怪訝そうにエアリスを見た。明らかにバレてしまっている。
話題を変えよう。
この状況を打破する思いつきを繰り出した自分に、エアリスは内心頷いた。

「そ、そんなことより、名前、教えてくれないかな?」
「なまえ?」
「そう」

突拍子もなく話を変えられたことには勿論、名前を尋ねられたことにも、少女の眉間に深く皺が刻まれた。今日限りの付き合いであろうエアリスにわざわざ名前を告げるのも理解不能だし、タークスである自分の個人情報を部外者に与えていいのかという懸念もある。とにかく面倒で、意味が分からない。
エアリス・ゲインズブールという人間が本当に不可解で仕方なかった。
しかし、そういった気持ちを読み取ったのか、エアリスは念を押してきた。ますます少女の眉間の皺が深くなったのは言うまでもない。

「呼ばなきゃいけない時、困るしね」
「……」
「駄目かな?」

にこにこと笑ってはいるが、教えないと何度でも聞いてくるのが何となく分かった。一つ溜め息を吐いてエアリスを見ると、じっと変わらぬ視線で自分に懇願している。
このめんどくささを自分は知っている。エアリスと似た、こちらが諦めないとどうしようもない人物を彼女はよく知っていた。
だからこそ観念して渋々口を開き、ぶっきらぼうに自分の名前を述べる。

「……名前」
「名前……名前、名前だね。うん」

歌うように、確かめるように、エアリスは彼女の名を数度口ずさむ。

「じゃあ、名前!」
「は?」

いきなり手がエアリスの両手に包まれたことに、自分でもびっくりするほど間抜けな声が出た。それぐらいエアリスの行動は思いがけないものだった。すぐにこの問答から解放されるだろうと勝手に高を括っていたが、そう簡単にはいかないらしい。楽しそうに名前を呼ばれながら掴まれた手を見て、名前は嘆息した。
一人の人間を監視するだけの、こんな簡単な任務に暗雲が立ちこめるとは一体どういうことか。名前はゆっくりと手から彼女の緑玉の瞳へと視線を上げた。
それを待っていたかのように、エアリスは元気いっぱいに笑う。その眩しすぎる笑顔で、今回の監視対象は名前自身最も苦手な類の人間であると改めて理解することとなった。

「花の水やり手伝って!」

嫌だ、とその場でばっさりと切り捨てたが、エアリスはめげずに何度も何度も名前に頼んだ。手を合わせてきらきらと自分を見つめるエアリスの姿に、ふと馬鹿なソルジャーの姿が重なる。

ああ、そうだあいつだ。

さっきの既視感の正体が分かって無性に腹立たしくなった。ちゃらんぽらんで、軟派。平然と名前の中にずかずか入ってこようとする。それに彼女の力を過小評価しているのか、戦闘中はやたらとこちらを気にするウザったいクラス2ndのソルジャー。
彼も頼み事に必死になると、こんな風に名前にしつこく拝み倒した。子犬と呼ばれるのも納得で、その時ばかりは可哀想な奴に見えてくる。その雰囲気に負けて最終的に折れるのは名前だ。なら、彼にどことなく似たエアリスに強固な態度をとるのは端から間違いなのではないだろうか。
その考えに至った瞬間、首を縦に振っていた。

手伝い、とは如雨露に水を汲んできたり、花に水をやるぐらいだったので、名前にとってはある種いい暇つぶしとなった。監視言ってもエアリスが逃げ出す訳でもないし、それ自体が彼女に知られているので姿を隠す必要もない。内容自体は暇そのものなのだ。任務が存在する意味を問いたくなるが、そうはせずにそれをを淡々と遂行するのがプロらしい。昔レノが言っていた。

それに花というものに触れたこともなかったので、実は興味もあった。虫を誘うためのものだという花弁も、図鑑に載っている写真より実際に目で見る方が色鮮やかで多彩だ。こういうものを綺麗と言うのだろうと水をやりながらこっそり思った。

いそいそと自分の隣でしゃがみ込んでいるエアリスは相変わらず楽しそうだ。見つめられていることに気付き、目が合うとにこりと名前に微笑んだ。それに何をする訳もなく、困ってしまいついつい目を逸らす。エアリスはそれにも慣れ、また作業に戻っていった。

自分の気持ちを伝えたら、この人間はきっと心から嬉しそうな顔をするのだろう。こんな風に眩しい笑顔を見せるのだ。それが名前は嫌だった。どう反応していいのか分からないし、何より恥ずかしかったからだ。自分の内面が他人にどんどん晒される感覚は好きではない。それを喜ぶ人間の意図もまた理解できなかった。
しかし、彼女は苦手だが、嫌いではないのかもしれない。エアリスから自分に向けられた好意は暖かい。一緒にいて包まれるような感じがする。落ち着いて、ほっとして。穏やかに流れるこの空気を、少しだけ好きになっていた。
だから、この時間も満更ではないのを名前自身認めているつもりだった。

一緒に作業をしていくうちに、エアリスはそんなレンの気持ちをなんとなく理解してきていた。名前はほとんど笑いもしなければ怒りもしない。表情を表そうとしない。しかし、決して性格が特異な訳ではなく、自分と同じような感覚が彼女の中にもしっかり宿っている。名前は普通の女の子だ。
それが分かるのは、彼女の態度故である。口数も少ないが、時折じっと花を見つめていたし、花の種類などは恥ずかしそうにエアリスに尋ねた。教えられたことは興味深そうに呟き、何度も頷く。花に寄りつく蜜蜂が飛んでいく様や、ふわふわ飛び交う蝶には目を細めて見守っていた。知らないものに飛びつく子どものように興味津々で、エアリスにはとても好ましく思えたのだ。
彼女はきっと、感情を表すのが恐ろしく下手で恥ずかしいだけで、それが全くない訳じゃない。だから笑いかけてもどこか申し訳なさそうに目を逸らすのだ。
可愛い、と改めて思った。外見だけでも可愛らしいのに、中身もこんなに愛しいなんて。エアリスはいろんな意味での苦笑をこぼしながら、摘んでいた花を抱えて立ち上がった。

「そろそろ帰ろうか」
「ん」

鈍色の如雨露を手に提げながら自分に続いた名前の顔に、泥が付いているのがふと見えた。

「頬汚れてる」
「どこ?」
「ここ」

エアリスは自分の頬を指すことでその部分を伝えたつもりだった。それなのに、名前はよく分からないようで見当違いの場所を手で拭っている。埒があかないとばかりにエアリスがハンカチを取り出して、固定するためか片頬に手を添えた。途端に顔を赤くする名前に、内心可愛さを感じながらも泥を拭ってやった。数回擦ると、ぱらぱら固まった泥が落ちていく。最後に指で撫で、肌に微かに残っていたものを撫でて払う。手を離すと、目をまん丸にして自分を見るから、おかしくておかしくてたまらなかった。

エアリスの家に着く頃には、丁度太陽も暮れる頃で、辺りはすっかり薄暗くなっていた。上へと帰る前にエアリスに玄関前で待つように言われたので、名前は忠犬宜しくそこで彼女が現れるのを待った。
空を見上げても星は見えず、仕方なく名前は携帯をいじっていた。レノから、ツォンから、その他同僚たちからの単独任務を心配するメールや留守録がひしめき合っている。いつもは見もしなかったそれらを、今日だけ見ようと思ったのは気が向いたからだろう。各人思い思いのことを適当に打ってきているが、自分を想ってくれているのがよく分かる。なんだか照れくさかった。

「ごめんね、お待たせしました」

最後のメールはあのソルジャーからのものだったが、それを見ようとしたところでエアリスが出てきたのでぱたんと携帯を閉じた。多分そのメールだけはもう見ないと思う。なんとなく。

「はい!今日手伝ってくれたお礼だよ」

エアリスの手には小さな花束があった。名前が花に水をやる傍ら、彼女はずっと何かにうんうんと悩みながら花を摘んでいた。それはこの花束のためだったようだ。何より名前が嬉しかったことは、一番気に入っていた花が多めに入っていたことだ。何気ない会話で聞かれたことを思い出して、暖かなもので胸がいっぱいになるのを感じながら、名前はエアリスから花束を受け取った。気恥ずかしくて、でもこの上なく嬉しくて、彼女に目を合わせられなくなる。顔が火照っているのを感じてとっさにぽす、と鼻を軽く花束に埋めた。
それでも、自然と口からは感謝の言葉が漏れていた。自分でも少々びっくりしたが、これでいい。
気持ちを素直に伝えることも、悪くはない。

「ありがとう、エアリス」

初めて見る名前の笑顔は、天使のそれよりも美しいと思わせるほどだった。






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