真っ白な部屋の隅から隅までが密閉されているようだった。息をする度に酸素がなくなり、体からの緊急信号が鳴り響く、そんな錯覚に襲われた。その空気は取り込むのさえ一苦労で、一息吸えたとしても喉にねっとり張り付くように通過し、不快感もひとしおだ。それに加えてとてつもない重力が心身共にかかっているような、感覚。
重い、重い、重い。
魔法も何も発動してないのに。分かり切ったことだけどこれは精神的なものなのだ。一分一秒たりとも味わいたくない、今すぐ逃げ出したい。それぐらい俺の防衛本能を刺激しまくる雰囲気が部屋いっぱいに満ち溢れている。
動くものはなく、音も立たない。静かすぎるぐらいの室内で、俺はただ医療用のベッドに座るしか出来なかった。もう何をしてもいけない気がするからだ。

その空気を作り上げている人物は俺がいるベッドの側の椅子に腰を下ろしていた。そして俺を見ることなく太腿の上に置いた堅い堅い握り拳をこれでもかと見つめている。まぁつまり俯いてしまっていた。
目だけさっと動かすが、俺からは頭しか見えない。可愛い顔もきらきらした目も、何も。しかも唯一見えるプラチナブロンドも輝きを失い、すっかりくすんでしまっている。
脚から覗き見える包帯が、息苦しさに拍車をかけた。






今日はタークスとソルジャー合同での任務だった。
内容は「星の力を利用し衰弱させる諸悪の根元神羅カンパニー」に対して反旗を翻さんとする中規模武装組織の制圧、あるいはそれが不可能な場合における人員を含めての組織の壊滅。
それぞれの部署から派遣されたのが俺と名前だ。彼女とは何故かよく任務で一緒になるから、お互いの戦いの癖も分かっているだろうとの上からの配慮――というのは建前で、本当は俺が名前にすっかり惚れてしまっていることをしっかりばっちり理解している上司による配慮らしかった。その証拠にアンジールは出発の際になんだかにやにやしていたし、名前曰くツォンは溜息を吐いていたようだ。
直属の上司のご厚意に甘んじて、俺は嬉々としながら任務に向かうことになった。

たった二人で行う任務ということで、敵自体それほど手強いものではなかったし、建物内部にも危惧したようなトラップもなかった。名前も余裕持って後衛としての役割を存分に発揮してくれた。相変わらず会話は少なくて、その少ない会話も単文口調だったけど。

とにかく俺自身今回は何事もなく武装組織を制圧できると思っていたし、それは名前も同じだろう。
だがしかし、俺たちの認識はまだまだ甘かった。
敵が潜伏する建物の内部を突っ切っている時に、前から、更には後ろからと神羅の一般兵と同レベルの連中にぐるりと囲まれたのである。鼬の最後っ屁だったのだろう。敵さんの顔にも鬼気迫るものを感じた。じりじりと近寄られ、とんと名前の小さな背中に当たる。これが背中合わせかとこっそり燃えたものだ。勿論そんなことを言ったら各方面からどやされる。遠慮なく注がれる殺気に殺らなきゃ殺られると直感的に確信し、合図もせずほぼ同時に俺と名前はお互いの前方へと駆けだしたのだった。

とは言ったものの、普通の人間がソルジャーに適うはずもなく、俺が相手をした連中は程なく全滅した。
残るは名前の担当分だけになったが、振り返った時もやはり名前の優勢。何人もの敵が地面に平伏し、残りも早数人となっていた。宙に舞い、手にした刀で敵に斬りかかる。力はないが華奢な体を最大限に活かした幾重もの斬撃が敵を襲った。名前の戦い方は一瞬たりとも無駄がなくて綺麗。アメジストの瞳がこれでもかってぐらい輝いていて、ついつい魅入ってしまう。
魅入るついでに手伝おうかと野次めいたものを飛ばすが、いつも以上に吊り上がった目に睨まれるだけに終わった。

そうこうしている間に敵も残すところ後一人。剣と刀の鍔迫り合いが展開され、キィンと金属音が辺り一面に響いた。一旦体勢を立て直そうと後方へと名前が飛び退いて、刀を構えようとした。



――しかし、俺の目の前で流れる光景は信じられないものに変わった。



あっと聞き慣れない悲鳴が聞こえて、ぴんと立っていた彼女の体が下へと支えをなくしたかのように崩れ落ちていく。足下へ目をやると、気を失っていると思っていた敵が名前の足にナイフを突き刺していたのだ。痛みで顔を歪めながら沈む名前と、それを最大の好機として突っ込んでくる敵。同時に俺の体が自然に動き、そして名前が足下の敵の肩の付け根を爆発させ、胴体との繋がりを絶っていた。容赦ねぇ。どうやら魔法を発動させたらしい。名前の足はナイフが刺さったままで、更にはぷらぷらと腕もついてきてしまっている。神経が断絶された状況でもナイフを握り締めたままの手にはある種の執念を感じるが、非常にシュールなことは変わりなかった。

足枷はなんとかなっても当然ながら残る一人は止まらない。
名前が顔を上げ、魔法を繰り出そうと掌を突きつけた時には、眼前の敵が剣を振り下ろさんとしていた。



とまぁ、その結果がこの様という訳だ。
その後間に合った俺が名前を庇い、右肩口から浅からぬ切り傷をもらい、その隙を突いて名前が敵の胴体を腰から真っ二つにした。それはもう惚れ惚れとするような太刀筋で。
絶命したのを確認しても、呆然としたまま名前は立ち尽くしていて、俺は体を起こしながら軽い気持ちで話しかけた。傷も血が溢れ出しているが、命に関わるものではない。経験の賜かそれが理解できたから、いつも通りに、笑いながら。
すると名前はゆっくりこちらへ顔を向けた。



多分、その時の彼女の顔を俺は一生忘れないだろう。



そこから名前は何を言ってもひたすら俺を無視をしていた。それも意図的なものではなく、何かを考え込んでいて、聞いてなかったような印象だ。しかし無意識なのか、俺の横からはぴたりとくっついて離れない。その行為で、彼女なりに深く責任を感じているのはよく解る。手当てを近くの病院で行った際も、緊急処置室の壁際――俺の姿がよく見える位置で立っていた。ぼうっとしていて、脚の傷の手当てをしようと話しかけた看護婦にも最初は気付いていなかった。数回話しかけられてようやくその看護婦に顔を向けた名前は、別の処置室に行くよう言われたが、頑として首を縦に振らなかった。結局名前はその位置からは全く動かずに、優しい白衣の天使を困らせながら手当てされていた。



そして現在に至る、と。二人とも処置が終わり、医師や看護婦も各々元の仕事へと戻っていく中、二人きりとなった室内。
ようやく落ち着いた頃に、名前から溢れる不穏な雰囲気に俺は気付いてしまったのだ。多分医者や看護婦さんたちが働く中でそれは掻き消え、今まで俺には届かなかったのだろう。しかし他に誰もいなくなった今、気付かないはずがない。

怒って、るのだろうか。日頃仏頂面でも氷みたいに表情が堅くても、名前の中身はそうじゃない。なら彼女の心で一番面積を占めている感情は一体何なのか。怒りか、悲しみか、悔しさか。俺だったら全部だけど、名前はどうなんだろうな。

視線は様々なところをさまよって、落ち着くところは最終的には下だ。
真剣にどうしたらいいか分からなかった。かけるべき言葉も見つからない。体が全く動かない。
率直に苦手だと思えた。俺は名前には全く太刀打ち出来ない。その結論がすとんと頭に落ちてきて、内心で俺は深く深く頷いていた。

でも、それでもだ。名前に怒られようとこの苦痛以外の何物でもない時間を過ごそうと、名前が傷つくよりよっぽどましだと思う。結局そんなの自己満足だ。それで名前がああなるのもやっぱり仕方ないのかもしれない。
だったら俺は黙ったままでも名前の傍にいたかった。その想いを受け止めることが俺の仕事だと思うから。



「なんで……」



ぽろりと零した一言は、名前には予期せぬものだったのかもしれない。それでもやっと声を発してくれたと俺はその一言を拾ってしまった。
はっと顔を上げた名前の瞳はゆらゆらと揺れていて、すぐに力の篭もったものへと変わった。

「名前?」

そこからはもう、止まらなかった。

「なんで庇ったの」
「……ごめん」
「あれは私のミス。ザックスが傷つく必要なんかない」
「……うん、ごめんな」
「……私が怪我した方がまし」
「……」
「なんで、なんで庇ったの……」
「ごめん」
「……馬鹿ザックス」
「うん、その通りだ……でもさ、名前」

俺は、名前にだけは傷ついて欲しくなかったんだよ。
頬を掻きながらそう言うと、名前はくしゃくしゃと泣きそうな顔をした。あの時見せた顔だ。悲しみとか怒りとか、色々な感情が綯い交ぜとなっていっぺんに押し寄せてきたような、なんとも言えない表情だった。

「そんなこと、誰も頼んでない……」

よくよく考えたら滅多に感情を露わにしない名前が、こんなにも微妙な感情のうねりをはっきりと表しているのは珍しいことだ。なんて人間くさい顔をするのだろうか。彼女はいつも堅い表情を崩さず、内に秘めた感情を人に晒すことはあまりなかった。だから俺は笑ったり怒ったりと、名前が感情を表現してくれるのが大好きだった。

「本当、参った」

俺は名前が好きだ。大好きだ。顔も性格も何かも。だから、ああもう。不謹慎だけど嬉しい訳だ。

「な、にっ?!」
「おっ、軽い」

ひょいと名前を抱き上げて、俺の膝の上に座らせた。名前もいきなり膝の上に乗っけた俺に最初は戸惑っていたが、すぐに睨みつけて無言の圧力を掛けてきた。いつもなら殴って脱出が常套手段だろうに、今回だけは我慢しているようだ。

「良い子」


頭を撫でて、にこりと笑う。膝の上に乗って何も抵抗もせずにおとなしくしているなんて、あまりにも無防備で、本当に今ならどうにでも出来そうな気がした。
けど。

「名前」

今はいい、置いておこう。

「俺以外にそんな顔見せちゃ駄目だからな」

目を見て伝えても、返ってくるのは不思議そうな視線だけだった。

「あんな?」
「さっきの顔」
「?なんで?」
「なんでって、なんでってそりゃあ……」

名前の人間らしい表情を誰にも見てほしくない。酷く醜悪な俺の気持ちだ。それを彼女に伝えることなど出来る訳がない。
笑って、と。彼女に一番そう言っていたのは俺なのだから。
きっと名前はこれからいろんな人と関わって、普通の女の子みたいになっていくのだろう。俺以外の誰かの前でも笑ったり怒ったり泣いたりするのだろう。
それでも、俺は、俺にだけそうしてほしいと願い続けるのだ。
表には出さずに、心のどこか片隅で。

卑怯だ、俺は。

「いたい?」

自嘲気味に笑っていると、いつもの名前が穴が空くかと思うほどじっと見つめていた。口調は素っ気ないが、意味は心配を込めて。
いたい、痛い、ねぇ。
痛かったのだろうか、俺は。

「そんな顔してた?」
「ん」

問いに問いを重ねることは結局答えてないし、有耶無耶にしてしまっている。けれども名前は問われたことに素直に頷く。なんだか小さな子と話しているみたいだ。
笑いながら頭を撫でて、大丈夫だと伝える。
俺頑丈だからさ、名前が心配しなくても大丈夫だよ。
彼女は自分の感情の機微には鈍いが、他人のこととなるとそうじゃない。それなりに俺のことも気にはしているらしい。

「どした?」

俺の肩の傷に、しっかりと巻かれた包帯の上からそろそろと名前が何度も撫でた。痛さに顔をしかめたが、名前は俯いていたので情けない顔は見られることはなかった。
そして、彼女が手を当てた部分からじわりと蛍色の魔晄にも似た輝きが溢れ出す。暖かな光が傷周辺を包み込んで、細胞一つ一つに何かが流れ、じわじわと浸透していく感覚。人間の自己再生力を限界にまで増長させ、傷を塞ごうとしていた。
俺に流れ込んでくる力の奔流、それはやはり名前のものだ。彼女の力が俺の中に溶け込んでいずれ一つになって――そう考えると妙な気分だ。

「変な顔」

ふと光が止んだかと思うと、急に名前が俺の顔へと腕を伸ばした。頬に手がやんわりと添えられ、彼女の顔もぎゅっと近寄る。どうやら肩の傷の治療は終わったようだが、いまいち意図が分からない。
彼女の名前を呼ぼうと口を開いた瞬間に、ぐっと手の力が強められて頬が押される。

「てっ?!」

ぴりっと痛みが走って反射的に眉を顰めた。いつの間にか戦いの中で切れてしまっていたようだ。
つまり、名前は俺の傷を何がなんでも治す気満々らしい。
俺の顔が知らず知らずのうちに赤くなるのにも構わず、また彼女の手から微かに光が漏れる。この傷は範囲も小さいので必要最低限の力しか使ってないようだ。薄い光が仄かに灯り、名前の金糸がそれを反射している。綺麗だよな、本当に。治療に集中する名前の真剣な顔に俺は間抜け面でぽーっと見惚れてた。

「できた」

手をどけて、俺の頬の傷がすっかり消えていることを確認するとほっと一息つく。その後ばっちり俺と目があって、名前はほんの少しだけ、本当に少しだけど口角を上げて、薄く微笑んだ。
名前の紫の瞳には、俺の顔が、碧い瞳が映り込んでいて、どうしようもなく切なくなる。
俺だけに笑ってる、俺だけを映してる。

永遠に続いたらいいのにと、この刹那にどんなに願ったことか。

名前が離れようするのと同時にごめんな、と呟いて、名前の声なんか聞こえないふりをすることを心に決めて、背中に腕を回して抱き締めた。肩口に額を押しつけて、また独り善がりに謝った。
痛かったらごめん、嫌だったらごめん。
だけどどうかこのままでいてほしい。今だけは俺の名前でいてほしいから。
すると背中に回された腕の暖かみが感じられたから。それだけでもう、十分だった。





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