鼻を啜る音に子供のような泣き声。それが徐々に小さくなっていくのに、心宿はほっと安堵の息を漏らした。丹念に頭を撫でていた手を休める。耳元でそっと名前を呼ぶと、ぴくりと体が震える。それがなんだかおかしくて、くすりと笑った。
 朔夜の中の澱みが少し軽くなってきている。

「もう泣きやんだか?」

 こくり、朔夜は渋々と頷いた。

「お前を移動させた理由、聞くか?」

 そう訊ねた時、突然朔夜は顔を上げた。
 それには心宿も少々驚いたが、何より据わりきった朔夜の目に嫌な予感が胸をよぎる。瞬時に顔が引き攣った。

「ちょっと待て!」

 落ち着くよう叫び、すぐさま後退さろうとしたが、朔夜の方が少し早かった。

「この、」

 左脚を軸にして、凄まじい勢いで右脚を振り上げる。
 この時だけは弱々しく泣いた少女が鬼の形相をしていたのにさっと心が引いた。

「クソ神ッ!!」

 朔夜は渾身の蹴りを叩き落とした。 通称下段回し蹴り。足首から上の背足を、鞭のようにしならせて相手の脚を狙う、回し蹴りの中でも威力の高い技だ。
 それを朔夜は空手部の友人に防犯という名目で戯れに教え込まれていた。それだけ仕込まれた甲斐あって、活用の目処はないが非常に高い評価を得ている。
 体重を乗せた蹴りは、心宿の弁慶の泣き所に正確にクリーンヒットした。鈍器で殴られたような痛みが神経を焼き切る勢いで頭の先まで走った後、じーんとした鈍痛が延々と脊髄の奥深くにびりびり響く。

「いっ……!!」

 心宿の余裕ぶった顔が一瞬にして崩れ去る。正しくは原田の顔だが、とにかくそれが歪みに歪んだ後、噛み殺した悲鳴を上げて、心宿はぐしゃりと膝を突いた。
 朔夜は仁王立ちして、涙目になった心宿を鼻で笑った。

「これで気が晴れたことにします!まだムカつくけど!!」
「お前…………」

 矛盾した台詞だが、これが朔夜の気持ちだった。
 絶望に一気に突き落としたと思えばいきなり慰めたりする。朔夜にとっては不可解だろうが、心宿は至って真摯な気持ちで朔夜を見守っていた。それだけは何となく理解していた。
 だから、仕方ない。
 仕方ない仕方ない仕方ない。 朔夜のそんな心の葛藤を聞いて、目を大きく開くと、心宿は少し笑みを混じらせた息を吐く。べちゃりとくだけた座り方をして、未だ痛む脚をさすった。
 朔夜も釣られてしゃがみこみ、心宿の様子を窺う。

「痛い?」
「人間体に痛覚があるとは不覚だった。これは痣になるな。湿布をくれ」

 女に蹴られた程度で大袈裟な神様だ。







 えへんと一つ咳払いをした心宿は、ようやく朔夜をタイムスリップさせた真相を語り始めた。
 一人演説に朔夜は体育座りをして、その声に耳を澄ませる。

「この先お前は安定を求めて公務員となり、ふと出会った男とごく普通の恋をして、何も考えずただ流されるままに付き合い、プロポーズでごり押しされ26歳で結婚する。子供ができて、同時に家を買う決意をするのが確か30の時か。子供も無事大学まで進学して、ゆくゆくは孫にも会えるだろう。それからは夫と共にのんびりとした老後を過ごし、やがて老衰で永眠。享年は可哀想だから教えてやらん。何の変哲もなくささやか、されど幸福な人生だ。しかし、それだけではちとつまらん。俺の愛するお前のために、地味すぎる人生をもっと鮮烈に、誰もが羨むようなものにしてやるにはどうしたらいいか。俺は必死で考え、そして答えはすぐに出た。それは経験だ」

 にもかかわらず、あんまり真相は語られなかった。びしっと突きつけられる人差し指を、朔夜は涼やかな目で見つめた。殴りたい、この気持ちは心宿に届いているだろうか。

「へっ!?」

 どうやら届いているらしい。
 ぴょこぴょこ跳ねた前髪を無視する。
 何にせよ、朔夜は求めてもないこれからの人生を大っぴらに打ち明かされてしまったことになる。
 初めは浅はかな神経を疑いながらも黙って聞いていた。
 しかし、後半は大体理想的な将来像に朔夜はきらきらと目を輝かせていた。普通に幸せに生きればそれでいい。そう思っていたからだ。
 だが、そんな朔夜の将来を地味だ何だと言われるのには顔をしかめた。それをいじられ、変えられるのも勘弁して欲しかった。
 結論として、心宿はロクなことをしないのが分かった。

――この神様本当に死ねばいいのに。

「神様にその口の利き方は何だ」
「口利いてないし心勝手に読まないでください」

 朔夜に咎められたのに、心宿はやれやれとあからさまに肩をすくめた。まるで朔夜が我が儘を言っているかのような態度だ。
 神とは往々にしてこのような性格なのか。げんなりしながら自分の足元を睨む。
 心宿は朔夜を気にした素振りも見せず、今度は真剣な表情でまた口を開いた。

「移ろう時代の波に曝されながら、幕末に生きた人間達は信念、命すらも賭けて何かと常に戦っていた。その何かとは異国や幕府かもしれないし、はたまた好敵手か、自分自身かもしれない。人によってそれは様々だが、何が敵であろうと誰にも屈さず、自分を貫き通す――その姿勢だけは変わらなかった。お前の時代ではそういう者も少ないだろう?ああ、批判している訳じゃない。それも一つの個性だ。時間の流れの中で培ったものだからな」

 そこまで話すと、心宿は苦笑した。

「……お前は迷惑だろうが、そういう者達に揉まれてみるのは、きっとお前の時代じゃできないことだ。それが経験だ。俺はあの者達を特に気に入っててな、だからお前を寄越したんだ。価値観の全く違う者と過ごすことは、お前に新たなものの見方を与えてくれる。今までとは違った風に世界を見ることができる。何十年もの歳月をかけたらその段階に至るのかもしれんが、若いうちに経験を積んでおいた方が何かと得だろ?ま、ぐだぐだ語ったが、つまり――」

 手っ取り早くいい女になれってことだよ、朔夜。

 初めて呼ばれた名前は、何故かとびきり優しく聞こえた。続けざまに原田みたいな優しげな笑みで、くしゃりと頭を撫でられる。笑った拍子に目を細めたことで、心宿の炎色の睫毛がよく見え、瞳の瑠璃色がより濃くなる。その笑顔がやけに子供っぽく、なのにとても綺麗に見えて朔夜は心宿に見惚れていた。

「期限は九月まで。明確な日付は忘れた。今は六月中旬だから、夏休み気分で存分に楽しめ」
「えっ?や、帰してくれないんですか?!」
「よかったな、今確か夏休みの真っ最中だろ。二倍に増えたぞ俺のお陰で」
「はぁあああ!?」

 朔夜は驚きのあまり立ち上がった。
 この時代に連れてこられた意図は大体理解したが、何より心宿が朔夜にそこまで取り計らう心意が読めなかった。そんなことをして一体何の得になるというのか、まだまだ納得できない部分は多い。
 それにローテクノロジー下で、現代に慣れきった朔夜が生活するのは困難極まりないことだ。様々な文化、技術の違いがあそこには溢れている。ここまできたら朔夜にとっては一種の異国の地に放り込まれたようなものだ。
 何より今朔夜は捕まっている身分だ。忍耐力はつこうともそれ以外が成長するとはとてもじゃないが思わない。身の危険だってある。この時代、捕縛された女である自分の権利などあってないようなものだろう。沖田には殺されなかったが、同じようなことがこれから先起こる可能性は十分あった。

「帰してください!」
「無理だ。知り合いと契約した結果だから、ばっちり九月までは帰れんぞ」

 それでも堂々と宣言する心宿に、朔夜はくらくらと目眩がした。恐ろしい事態になったと頭が痛くなる。

「死にそうになったら助けてやるから安心しろ。まあ、俺の出番はないかもしれんが」

 にやりと笑った心宿を怪訝に思いながらも、なおも食い下がろうとする朔夜に、彼はとんと額を突いた。
 途端に光り輝き始める朔夜の体。自分の手と心宿を交互に見やりながら、朔夜は戦慄いた。
 今の状況を問う朔夜の言葉を何も聞こえてないように無視をすると、そうそう、と思い出したように呟く。

「俺はアカシックレコードをいじることもできれば、時間移動も思いのままだ。だが、お前達人間は違う。未来を変えようと行動を起こしても、時間の修復機能はお前が想像するよりずっと強い。何をしようとしても無駄だ。それだけは忘れるな」
「どういう、」

 朔夜が訊ねようとした時は、既に視界は光に包まれ、何も見ることはできなかった。
 意識はそれきりぷつんと途切れた。







「ん……」

 薄く目を開けると、今度は肌色しか視認できなかった。
 透明な液体の中で、ゆらゆら揺れる上気した肌の色。胸から脚にかけて、全てが生まれたままの姿で熱めのお湯に浸かっている。何度見ても、やはり着物も何も着ていない。正真正銘の裸だった。
 ぐいぐい目を擦る。
 少し息がしづらい。熱気が鼻や口へと入り込む。はあっと大きく息をして、腕を上げた。ちゃぷんと音が立ち、水が滴り落ちる。縛られた手首は鬱血していたらしく、痕が残ってしまっている。それでも、その痣は束の間の自由を表しているようで、朔夜はぎゅっと手首を包み込んだ。
 きょろきょろと辺りを窺うと、見覚えのない木製の浴室が見えた。シャワーも何もなく、ただ桶や鏡があるばかりのそこは、昔の銭湯のようだと朔夜は思った。
 どうやら、幕末に戻ってきてしまったらしい。さっきまで見ていた光景が、夢なのか何なのか、それは朔夜には分からない。けれどまだこの時代にいるなら、強ち現実だったのかもしれない。
 そして、何気なく後ろを振り返ると、風呂のふちに頭を預け、口を開けて気持ちよさそうに寝こけている原田がいた。赤い髪を首筋や肩に張り付かせ、豪快に寝息を立てている。
 暫し、その寝顔を見つめていた。
 朔夜は裸の原田の上に跨がされて、お湯に浸かっているらしい。触れている部分から彼の熱さを感じる。普通なら声を上げて飛び上がるが、朔夜は至って落ち着いていた。
 朔夜はゆっくりと手を伸ばすと、原田の頬を軽く撫でた。
 初めて会った時に交わした、ほんの戯れのような約束だった。朔夜は本当に風呂に入りたかったが、原田にとってはそれを出しにして猿轡を取ろうとしたのだから、叶うはずないと朔夜すらも忘れていた。なのに、原田は朔夜を湯浴みさせようと喧嘩までしてくれた。それを永倉や沖田に聞かされた時、驚いたと同時に悲しかった。自分のせいで原田に迷惑をかけた、と。
 しかし、胸の奥には隠しきれない喜びがあったのも確かだった。
 湯浴みの約束を守ってくれたことや、久々に原田に会えたことで、朔夜は胸が一杯だった。

「ありがとう、原田さん」

 こてんと胸に顔を押しつけ、朔夜は心からの感謝を口にした。