むに、と人差し指と親指に力を込めると、案の定感じる頬の痛み。それは今の状況が夢ではないと如実に教えてくれる。牢の中で毎日現実を確認する方法だった。

「……いたい」

 しかし、ここは牢ではない。目を開けた朔夜の視界は真っ白だった。陰気なしみまみれの木の天井は見当たらない。この空間は何なのかとか疑問は多々あったが、朔夜はタイムスリップに監禁、殺人未遂と様々な目に遭っている。今更何が起こっても朔夜は動じなかった。
 とりあえず軽く目を瞑る。瞼の裏は真っ暗だった。





 沖田が刀を振り下ろしたところは見ていない。けれど、空気を斬る音が聞こえた時には、確実に死ぬと思った。朔夜は恐怖と来る痛みにぎゅっと目を瞑った。

――あれ?

 しかし、いつまでたっても刀が朔夜を斬ることはなかった。思いもしなかったことに涙もぴたりと止まる。
 斬られなかったことにほっとしながらも、そうしなかった沖田が不思議だった。彼は本当に朔夜を殺す気だった。まざまざと沖田の殺気が蘇ってきて、朔夜はとっさに目を覆う。勿論、手で。

「手……?」

 はっとして手首を見ると、少し赤くなった戒めの痕が残っているだけだ。床には鋭い切り口で切断された荒縄があった。

「動かないでよ」

 それらを朔夜が発見したと同時に、掛けられる声。淡々とした動作で再び沖田は刀を振り下ろした。どうやら足の戒めも解いてくれたらしい。
 チャキ、と鍔が鞘に当たる音。刀は鞘に収められる。

「…………」

 今の今まで朔夜を殺す気満々だった男が、どうしてそういう措置に出たのか見当もつかない。
 沖田はやはり無表情のまま、朔夜の傍まで近付いてくる。殺気はなかった。その分、彼からは意図も何も読み取れない。もしかしたら何も考えてないのかもしれない。
 ただ、袴に差していた刀を引き抜き、手に握っていたのが引っかかった。

「あの、」

 長い鞘。迫る柄頭。頸椎に走る鈍痛。

 そこから先は覚えていない。





 そして、気が付いたらここにいた。
 背中は牢の床ではなく、真っ平らな何かの上にある。材質不明なため、床とも地面とも定義しがたい何か。 また、ふわふわと浮いている訳ではない。真っ白な世界にも重力云々の法則が成り立っているのだろう。だったらここは地球上ということになる。むしろそうだったらいいと思った。

――おい。

 声が聞こえた。それも鼓膜を震わすことなく頭で響く仕様で。慣れない作用を受けて脳がぐわんぐわんと揺れる。
 聴覚野に直接電気信号を送られ、声として処理される。理屈としてはこんな感じだろうか。耳を介さないその現象は、まるで脳をいじられているようだ。そう考えると少し不快なので普通に喋って欲しかった。

「それはすまないな。これで満足か」

 今度聞こえた声は右側から。
 思わず朔夜は目を覚ました。ぱちり、純白の世界を目に映す。まじまじと見ると、真っ白な宇宙のような不思議な空間が広がっていた。塞がっているのではなく、距離の概念が一切ない。牛乳寒天に閉じ込められるのはこんな感じなのかもしれないと、何となく思った。

「急拵えでてきとーに作った精神世界だがそれはないだろ」

 そりゃ牛乳かん作る並に楽だったけど。

 また誰かが右側でぼやく。聞いたことのない、ずっしりとしているのにどこか柔らかな男性の声だった。
 じゃあ豆腐の方がよかったかなと考えたら、豆腐は好きだぞ男前豆腐たまらんと返ってきた。さっきから随分と庶民派だ。もう少し声の主と話してみたいと思ったが、思考を丸ごと浚えられるのは少し鬱陶しい。しかし、確かに男前豆腐は美味しい。
 朔夜はゆっくりと顔を右側に向ける。ぼやけた視界はぶれるが、すぐに赤い人影に焦点を合わせた。

「原田さん?」
「正解だが外れだ」

 近くもなく、遠くもない。適度な距離感で原田ではないらしい誰かが朔夜を見下ろしていた。
 不躾とは思ったが、体だけ起こしてじろじろと観察した。

「どうした?」

 男はくつくつ笑いながら、薄い眉を片方だけ上げる。面白そうに朔夜を見つめる表情は、原田左之助そのものだ。
 けれど、違う部分も多々あった。瞳は深い瑠璃色で、燃え盛るような赤毛は纏めずに肩に垂らされ、白い袴に、何故か上半身には軽装の鎧。今から戦にでも向かうような、ただでさえ目を疑う服装なのに、露出された腹筋が眩しい。しかし、その腹にはあるはずの古傷が存在していなかった。上官に腹立って斬ってやった、と笑ってばしばし叩いていた彼の傷が。更に、口には自信家な面が窺える笑みを浮かべている。悠揚迫らぬ態度ではあるが、優しげで、朔夜を見守ってくれた穏やかな笑みはそこにはない。
 姿形は原田左之助なのに、やはり本人が言うように何かが違っていた。

「理解できたようで幸いだ。俺の名は心宿という」
「しんしゅく?」
「いろんな呼び方があるんだが、俺はこれが気に入っている。まあ、心宿様とか親しみと敬意を込めて気軽に呼んでくれればいい。何故なら俺は神様だからな」

 いきなり始まった自己紹介にぎょっとしたが、心宿は構わず言葉を続けた。
 聞いていてなんだが、態度は明らかにでかい。全てを当然と言った風に宣い、自分の言葉に疑念は一切ないらしい。だがしかし、仕方ないと根底で観念させるのは、実際心宿が神様だからなのだろうか。
 不思議な気分になりながらも会話を促す。

「……じゃあ、原田さんは神様なんですか?」
「はぁ?何故そうなる」
「だってあなたが原田さんの姿をしてるから。何か繋がりがあるかなと」

 心宿はなるほど、と呟いて腕を組む。そしてつらつらと説明を始めた。

「神ってのは思念体で、実体を持たない。それは人々の意識、自然の意志、森羅万象全てが混じり合ったエネルギー体だからだ。今回はお前が言葉を交わしやすいようにと、俺自身のイメージに一番近い姿をお前の頭からちょいと拝借した。お前も脳に直接語りかける空気と会話したくはないだろ。何故こんなに腹が丸出しなのかは分からんが」

 腰に手を当て、逞しい腹筋を撫でる。

「さて、本題に移ろう」

 心宿ははらりと目にかかる前髪を掻き上げた。そして透き通った碧眼で朔夜を見据える。少し、どきりとした。

「分かっているとは思うが、お前を新選組屯所に移動させたのはこの俺だ」
「……そうでしょうね」

 薄々感じていたことだが、朔夜は敢えて目を瞑っていた。自分の目の前に突然現れたからといって安易に決めつけてはいけないと思ったからだし、何よりもし元凶だったら自分の中の積もり積もった醜いものが吐き出されることを恐れたからだ。

「いい経験になっただろ?」

 心宿が何も考えずに笑ったのに、やはり頭はかっとなった。握り拳をぎゅっと作り、煮えたぎる心身を抑えようと我慢する。

「あれが?」

 監察方に捕縛され、尋問という容疑者の如き扱いを受け、猿轡を噛まされ縛られ監禁されて、風呂に入るのも適わず用を足すのも常に限界まで我慢を強いられ挙げ句の果てに殺されかかった。
 それを、いい経験の一言で片付けられたことに、朔夜は激しい怒りを覚えていた。

「……なんで、そんなことしたの」

 理性を以て抑えられた声は、自分でもびっくりするほど低かった。
 心宿はきょとんとする。
 朔夜の心を助けてくれた原田と同じ姿をした存在に、生きてきた中で一番怒りを向けている。もう訳が分からなくなった。ざわざわと頭で恨み言がさざ波のように押し寄せてくる。

 知らない土地に放り出され、いきなり捕らえられた朔夜がどんなに心細かったか。
 屈強な男達に監視され、星空も草木も何も見えない暗い木の箱に閉じ込められて、どんなに怯えながら過ごしていたか。
 足音が聞こえる度にがたがたと震えた。殺されるのかと、死への恐怖が毎日毎日訪れる。目を覚ます度に夢だと願うも、それは叶わない。
 元の時代に帰れるのだろうか、ここから出られる日は来るのだろうか。頭の中は不安ばかり。希望なんかなかった。沖田に刃を振り下ろされるその時まで、一抹たりともだ。

 思い出したら憎々しい気持ちが溢れ出してくる。このような状況に陥れた男に腹が立って仕方がなかった。神様だろうとなんだろうと泣いて謝って土下座するべきだ。
 ふむ、と納得したように頷いた心宿は、朔夜を瞳に映すと困ったように眉尻を下げた。

「そうか、あまりにもお前達の時代の者は死に対する危機感が足りんからと思ったのだが、それがお前にとってそこまで重荷になるとは思わなかった。この時代じゃありふれたことだと手を出さなかったんだが――」

 一々癇に障る男だ。未だに心を読まれ続けることも、朔夜とは全く縁のなかった価値観を押しつけられることも。朔夜の堪忍袋はいい加減限界だった。
 朔夜が全てぶち撒けようとした時、不意に視界は白以外の何かに包まれる。

「俺の思惑はお前を苦しめたようだな。俺には人間の心など分からん。お前をそこまで傷つけるとは思いもしなかった。すまない。二度とこのようなことはしない。だから、もう泣くな」

 朔夜を包んだのは、心宿の仮初めの体だった。ぎゅっと抱き締め、彼女の頭を丁寧に撫でる。朔夜に触れた部分が静かに濡れていく。それぐらい、朔夜の目からは涙が溢れていた。
 いつ泣き始めたのかは分からない。心宿に言われてようやく気付くほどに怒りに震えていたらしい。
 後から後から涙は零れる。数度拭って止まらないことを知ると、ぺちり、と彼の胸を叩く。

――謝るぐらいなら最初からこんな目に遭わせるな!

 声にならず、嗚咽ばかりが響く空間でも、朔夜の慟哭はノイズもなく心宿に真っ直に届く。その心の痛みも、全部。神である心宿にその気持ちは解らないが、意味は分かる。

「すまん」

 朔夜の叫びが聞こえる度に、心宿はそう言って謝った。








心宿さんの服装は某カレンダーの落ち武者コスより。あの左之さん格好良すぎる。