くだらない。原田も土方も一人の女に振り回されて情けない。

――いや、左之さんはいいか。

 牢に赴く道すがら、沖田は思う。
 原田左之助という男は槍を振るえば無双の如き戦果を上げるが、情に厚く義理堅く、女子供にとかく甘い男だった。千鶴をべたべたに甘やかす姿を常日頃から見ている身ならば分かる。
 ぼろ布のような女を見れば、彼の心も揺れるのかもしれない。間者の狂言に騙されたのか、精神異常者の妄言に同情したのか。何にせよ、情に絆されでもしたのだろう。賢い人なのだが、人間たまに間違ってしまうこともあるようだ。
 しかし、解せないのは土方だ。何故いつまでも不審人物を新撰組に縛り付けるのか、沖田には理解不能だった。屯所内に侵入されたならば、間者と疑わしいならばさっさと斬ってしまえばいい。
 聞けば女には、今は身寄りもないと言う。「未来から来た」のだから当然だ。何をどう処理しても、新撰組に不利益を被ることもない。
 けれど、土方はわざわざ千鶴だけでは飽きたらず、原田にまで世話をさせている。女は千鶴と同じ年頃だ。だから斬れないとでも言うのか。新撰組の鬼の副長が? ふざけている。

――だったら僕が殺してあげる。

 自分に任せたということは、つまりそういうことだ。







「こんにちは」

 鍵を開けてもらい、女がいる牢を覗き込む。
 見窄らしい着物を着させられた女が、一人。
 そろりと沖田の方を見て、すぐに目を伏せる。そして、落胆の色を濃くした溜め息。
 手足は拘束されているが、猿轡は取り外されている。その報告は確か受けていない。大方、原田が看守を説得して、土方に内緒で取ったのだろう。

――左之さんったら、悪いんだ。

 灯りの一切ない、じっとりとした重い空気を纏わりつかせながら、牢へと一歩足を踏み込む。
 沖田の姿を目に映しながらも、女は一切口を開こうとはしなかった。残念だ。喚いたら刺してやろうと思ったのに。原田との尋問で隊士には慣れたとでも言うのだろうか。

「怖がらないの?」
「……別に、怖くはない、です」

 妙に歯切れの悪い台詞に違和感を覚えながらも会話を進める。

「なんで?」
「今朝から何人も隊士さんが来たから」
「へぇ、そうなんだ。誰が来たんだい?」
「男の人と男の子と、あと女の子」

 あまりにも雑な返答に苦笑した。どうやら女は会話をするのが面倒らしい。
 しかし、沖田がその要望に応えるはずもなく。女の子? と彼はわざとらしく首を傾げた。

「新撰組は女人禁制なんだけど。女の子なんかいた?」

 女は意味が分からないと言った風に眉を顰めた。

「……随分着物の色が控え目だと思ったら、もしかして男ものですか? あれ着せただけでよく女人禁制とか言うね」

 この時代ってやっぱり分からない。

 ぼそりと言い捨てて、女はさっさと会話を切り、沖田から目を逸らした。それからは一声も発しようとはしない。へたりと床に横になっている姿は随分と憔悴しているようだ。
 昨夜、女に興味を示していたので、男の人というのは恐らく永倉のことだろう。男の子なら、新撰組では藤堂以外の他ならない。女が疲弊しているのを見ると、ぎゃあぎゃあと牢で騒いでいたことは容易に想像できる。
 それにしても、原田の話から得た印象とは随分違う。原田からは、制限さえなければ延々と二人で話し込めるほど明るい女だと聞いていた。

「よく分かるね。千鶴ちゃんの男装、あんまりバレたことないんだけどな」

 それと同時に沖田は少し感心すらしていた。女はその辺の者とは異なる価値観を持つらしい。特殊な教育でも受けたのだろうか。端々に感じる言葉ぶりからも徹底されている。
 未来から来たなどと、見え透いた嘘もいいところだ。間者か、そうでないか。見極めなければならない部分はこちらだろう。

――これはいよいよ怪しくなってきたなぁ。

 柄頭に置いていた手が、鍔を軽く撫でた。







「――原田さんが、その、喧嘩したって本当ですか?」

 殺すか、殺すまいか。
 思案している時に突然降って湧いたような問いに沖田はきょとんとする。そして瞬きをして女を見下ろした。
 先ほどとは打って変わって、力強い瞳で沖田を見上げている。
 初っ端から感じた違和感に納得した。沖田が来た時に落胆し、その会話に煩わしさを感じていたのは、原田に何かあったことを心配したかららしい。

「そうだけど、それが何?」
「私のせいですか」

 押し殺したような声は少しばかり震えていた。

「そうだよ」

 背筋が凍りそうなほど綺麗な笑みを貼り付け、残酷な事実を突きつける。

「馬鹿みたいに君を湯浴みさせたい、土方さんが納得するまでここを離れないって頑固に主張するから、土方さんもキレて大喧嘩になっちゃったんだよね。見物だったよ。あんなに怒った左之さん見るのも久しぶりだ」

 いよいよ女の顔が険しくなるのに、沖田は手を叩いて笑いたい気分になった。

「原田さんに、」

 けれど、原田のためだけにこんなに様々な表情を見せるなら、気が触れている訳でもないのだろうとも、冷めた頭は考えていた。

「原田さんに、何か罰は……」
「君と二人きりで湯浴みすること」
「は!?」

 がばっと顔を浮かせた女に対して、沖田はおや、という表情を作る。
 女は目を大きく見開かせて、沖田にどういうことだと訊いている。その頬はほんのりと赤い。気恥ずかしさと戸惑いが入り乱れたそれは、今までで一番生娘らしい表情だと思った。
 もしかしたら。
 ぐらり、女を斬ろうとしていた気持ちが僅かに揺らぐ。

「こーんなちんちくりんな女と湯浴みだなんて、立派な罰だよね。左之さんには同情しちゃうな」
「はっ、いや、そう! だけど……!」
「何その顔。何か文句でもあるの?」
「ないよ! ないです! 初対面なのに、色々と失礼な人だな……!」
「あはっ、よく言われるよ!」

 もしもこれが演技なら、そう思わせた女は見事だ。自分の中の疑いを消しかけた技術は称賛に値する。その代わりに、それが分かった時点で女は斬られなければならない。

 けれど、もしもそうじゃないなら。



「――少し、遊ぼうか」



 極端に温度を下げた声に、女は弾かれたように沖田を見上げた。
 纏う沖田の雰囲気は明らかに剣呑なものに変わっている。ぴしり、ぴしりと、肌で直に感じるぐらいに牢に漂う空気を凍らし、停滞させていく。
 心臓を握り潰されそうな錯覚。沖田の全てが女を総毛立たせる。
 薄く口角を上げ、彼は氷のような微笑を浮かべていた。

「怖がらないでいいよ。これはほんの戯れなんだから。君はたった一つ、問題に答えられればいい」

 そう言いながら、鞘から焦れったく抜刀する。刀身と鞘が擦れ合う音が、狭い牢に反響した。

「それに正解したら、君の勝ち。君は晴れて解放される。おまけに左之さんとの湯浴み付きだ。けど、君が間違えたなら、」

 刀の切っ先を女の首に突きつけ、沖田は笑った。

「ここで殺す」







「ああ、最後になるかもしれないから、名前を聞いておこうかな」

 刀の切っ先は女の頸動脈を今もじりじりと狙っていた。軽く身を捩るだけで触れそうなぐらい距離が近い。女は恐怖で何も言葉は発さないままに、ただ冷たく笑う沖田を凝視していた。

「早く言わなきゃこのまま殺しちゃうよ?」
「……朔夜、です」
「聞こえない」
「っ、朔夜!」

 勢いよく飛び出した女の名前を、沖田は丁寧に受け止める。
 山崎の調書は見ていない。原田の話も大体で聞いている。自分の興味のあるもの以外を覚えようとしない頭は、案の定彼女の名前を記憶していなかった。
 だから、口内で頭の中で何度も吟味し、刻みつける。
 朔夜。それが彼女の名前だった。

「朔夜、ね」

 牢に来てからのことを思い返せば、朔夜は原田のことばかりだ。彼を想って落ち込み、拗ねて、挙げ句の果てには綻びかけた春の蕾のような、恥じらう乙女の顔をする。原田を慕う姿に免じて、少しだけ信じてもいいと思えた。
 もしも間者だった時は、そう自分に思わせたことを評価して、彼女の名前を覚えておこうとも。

――それに、左之さんに泣かれるのも迷惑だしね。

 くすくす、朔夜の耳に笑い声が届いた時だけは、いつもの人を喰ったような笑みに戻っていた。
 しかし、それもすぐに消える。にやりともせず、沖田は仮面を被ったようにそれから一切笑わなかった。本当に、表情がすっかり消えてしまっていた。刀には殺気すら篭もっていない。けれど強く握られたそれは、先程と寸分違わぬ場所にある。もしも身動ぎ一つすれば、それは遠慮なく朔夜の首へと振り下ろされるだろう。全てを押し殺し、何の感情もない。
 重くて、暗い世界が、朔夜の目にも、沖田自身の目にも映っていた。
 朔夜の顔がより強く恐怖に染まる。

「…………」

 死を覚悟した者の瞳を見た。

「新撰組を、朔夜は知ってるね?」

 こくり、弱々しくも頷く。そのことについては原田からの報告で聞いていた。一部の組長の大体の情報すら知っていることも。

「じゃあ、沖田総司という隊士は?」
「……知ってます」
 絞り出したような声だが、それでも朔夜は懸命に答える。

「僕が、沖田総司だ」

 朔夜は軽く目を見開き、自分を今にも殺そうとする、沖田総司という人間をしかと目に焼き付けた。そして一瞬何かに逡巡したように目線が揺らぐと、それから決して沖田を映そうとはしなかった。哀れみや同情みたいな大嫌いな感情と、申し訳なさに塗り潰された瞳。ぐるぐるとその光景が頭で巡っていく。
 目を逸らしたままの朔夜を、呆然と見下ろした。どのぐらいの時間が経ったのか分からないぐらい、長い間そうしていた。
 息が何故か上がるのに、徐々にうまく吸い込めなくなる。喉に薄い膜が張ったように、呼気を取り込むのを阻害する。その膜は緩やかに厚くなり、そこかしこへ纏いつく。
 けほ、と一つ、空咳をした。
 かあっと血流が体を流れるように、ばくばくと心臓が突然動き出す。
 刀の切っ先がぶるりと震えた。

 本当は、それだけで十分だった。

「僕が将来どうなるか、君は知ってるんだよね」

 狂おしいほどに悲痛な声を出す沖田を、朔夜はじろりと見た。何かを言おうとし、押し黙る。
 そして、朔夜はかさついた唇をゆっくりと動かした。
 掠れた、酷く耳障りの悪い声が聞こえた。

「知らない」

 それだけ言い放って、朔夜は床に押しつけて顔を隠した。がたがた震えて、声を押し殺して泣いていた。何を泣いているのか、沖田は分からなかった。
 息がしづらい。また咳が出る。

「そう」

 気付けば、沖田は刀を振り下ろしていた。