手を合わせ、いただきますと呟き、箸を掴もうとした時点で体の動きは止まる。
 白米、南瓜の煮物、すずきの塩焼き、しじみの味噌汁。
 山のように盛られた白米一粒一粒の輝きには思わず目を奪われたし、ほくほくのかぼちゃは程良く煮詰められ、口に入れたらその甘みがじわりと広がるだろうことは容易に予想がつく。栄養を求め続けた朔夜の体は唾液を過剰に分泌させる。
 今まで貧相な食事のみの身分としては、食べたくて仕方がない。
 しかし、今日まで牢に捕らえられていた分際が箸をつけていいのだろうか。
 二つの相反する心の声に、自分のとるべき行動を決めあぐねていた。きょろきょろと周囲の様子を窺うも、各々自分のことに手一杯のようだった。

「よっしゃ魚いただき!」
「あっ! オレの最後の一切れが!」
「恨むなら隙だらけの自分を恨むんだな平助!」
「……雪村、この南瓜の味付けは中々のものだ」
「本当ですか? ありがとうございます」
「千鶴ちゃんも、こういうのだけは役に立つよね」

 賑やかな会食だと朔夜は思った。武士の食事は静かなものだとなんとなく思い込んでいた。目紛るしいまでに幹部達が動いて騒ぐ、その光景が朔夜の目の前でちかちかと映画のように流れていく。
 永倉は藤堂から魚を奪い、藤堂は斉藤から奪おうとして防がれ、素知らぬ顔で斉藤は永倉の南瓜を奪い、沖田や原田は酒を飲む。そして他の面々は慣れたもののように食事を口に運んでいた。
 ただ呆気にとられてそれを客観的に眺めていた。ぽかんと見つめる朔夜だけが、騒がしいこの空間から切り離されたようだ。馴染まない空気、非現実。改めてここは知らない場所なのだと思い知らされる。肩身が狭いとはこのことだ。

「なんだ、まだ箸つけてねえのか」

 そんな空間と朔夜を繋いだのはまたしても原田だ。夕餉の時間だけ隣に座らせてもらっていたためか、落ち着かない朔夜の雰囲気を原田はすぐに察したようだ。優しげな視線を向け、頭を撫でる。

「遠慮せずにたんと食べろよ、朔夜。千鶴の南瓜、味に煩い斎藤のお墨付きだからな」
「あ、はい……」

 箸を取りはしたが、そこからが戸惑った。微笑んだまま、原田は何も口につけようとせず、朔夜の動向を見守り始めた。どうやら朔夜が食べようとするまで、原田はそうするつもりらしい。酒すら呑もうとしない。
 監視とは意を異にする気まずさを覚えた。おずおずと困った顔をして原田を見上げる。

「…………う、」
「そんな顔すんなよ。さっさと食べないお前が悪い。それとも、また湯浴みん時みたいに手取り足取り食べさせてほしいのか?」

 湯浴みのことを話に出すたびに、朔夜は顔を真っ赤にする。原田は恥ずかしげに身を縮ませる朔夜が可愛らしくて軽く笑った。
 自ら原田の胸に擦り寄ったのは朔夜だが、我に返れば過去の自分を呪いたくなるほどの痴態であり失態だった。

――裸の男の人に寄りかかるなんてどうかしてる。

 それに朔夜が目を覚ました後には、こちらでの体の洗う道具が分からない朔夜をにやにやと見つめ、渋々助けを求めたら悪戯が成功した子供のような表情で朔夜を膝上に乗せ、体や頭を洗った。体は手ぬぐいで隠してはいたが、やはり何回考えても抹消したい恥ずかしい。
 朔夜はもうこれ以上湯浴みのことには触れられたくもなかった。

「いやっ、食べます! いただきます!!」
「聞き分けの良い子で助かるぜ」

 原田に半ば脅され、慌てて朔夜は南瓜に箸をつけた。ほんのりと茶色く色づいたそれが朔夜の食欲をそそる。生唾を飲み込んで、朔夜はぱくりと一口で南瓜を食べた。舌先で感じる甘みと南瓜のデンプンのざらりとした食感。それらを口の中一杯に感じた。朔夜は嬉しくて何故か目に涙が溜まった。

「うまいか?」
「はい! おいしいです。千鶴ちゃん、南瓜おいしい!」
「そう言っていただけて嬉しいです。朔夜さんが夕餉を頂くと聞いて張り切りましたから」
「本当? ありがとう千鶴ちゃん」

 二人のやりとりを聞きながら、原田は何気ない動作で箸をとった。思えば原田も酒ばかり呑んでいて、あまり食事に手をつけていない。何か食べるのかなと思った瞬間に、ぬっと目にも留まらぬ速さで筋肉質な腕が伸びてくるのを朔夜は見た。

「っと!」

 しかし、ガチ! と硬い音がして、その動きは止められてしまう。伸びてきた手には箸、そしてその先は朔夜の南瓜に付くか付かまいかのところにあった。箸の主を辿ると、そこにはやはりというか永倉の姿。原田の箸が、朔夜の南瓜の奪取を防いだようだ。ぎりぎりと永倉は力を込めるが、原田も同様にそれに抗い、二人揃って謎の攻防を繰り広げていた。
 お腹を空かせた朔夜はまたしても食べられなくなる。

「……朔夜の食いもんには何人たりとも触れさせやしねえ」
「自分のもんは自分で守んのが基本だろうが」
「そりゃあ俺達の話だな。いたいけな女の食いもん奪うとはどういう了見だてめえは」
「左之さんって本当に女に甘いよね」

 ひょいっと沖田の手が伸び、原田の隙をついて朔夜の南瓜を奪う。あ、と声を出した時には遅く、南瓜は沖田の口の中だ。
 南瓜のあまりの美味しさに感動していた身としては、目をかっと見開くほどの事態だった。
 それに見かねて、原田は永倉と争っていた箸を引っ込める。

「総司、朔夜の飯とるなっつってんだろ」
「だってもう食べちゃったし」
「ったく。お前はそういう奴だよな」

 いくら言っても聞かないと早々に諦めた原田は、南瓜が一つ減った朔夜の小皿を取り上げた。またしても南瓜を食べられるのかと、朔夜は焦った。

「朔夜は南瓜好きなんだな?」
「? そうですけど……」

 原田の意図がよく分からずにとりあえず答える。そもそも朔夜に一番足りないのは野菜から摂取すべきビタミン類だ。自ずと野菜である南瓜を求めるようになる。それに千鶴が腕をかけて作ってくれた南瓜は本当におしいかったし、大事に食べたいと思った。
 原田は食べ物の更なる確保に必死な永倉や藤堂、そして自分の小皿から南瓜を摘み、朔夜の小皿にころころと入れた。惚れ惚れとするほどの手際のよさで次々と南瓜を奪っていく。二人が気付いた頃には、朔夜のお膳の上に山盛りとなった小皿が置かれていた。

「食べていいぜ、朔夜」
「いや、でも……」
「左之さんひっでえええ!」
「俺の南瓜! 千鶴ちゃんが作った俺の南瓜が!」

 ちらりと二人を覗き見れば、南瓜がなくなったことをひたすら嘆いている。
 流石に二人の南瓜を食すのは申し訳ないように思えたが、そんな朔夜の迷いを吹き飛ばすように原田は笑った。

「大丈夫、あいつらにも一個は残してやったんだしな」
「……そんなんでいいんですか?」
「そんなんでいいんだよ。何事も因果応報だ。やったらやり返されんだよ。ほらこれも」 おまけに原田の分の魚の切り身をどでんと置かれ、朔夜はもう取るべき行動が一つに絞られていくのを感じた。
 原田はにこにこと朔夜が食べるのを待っている。
 それになりふり構っていられないほどにお腹が減っているのも確かだ。次はいつ満足に食事ができるかも分からない。朔夜はそういう状況に立たされている。
 朔夜は箸を持ったままもう一度手を合わせる。永倉や藤堂の叫びは遮断することにした。あとから何度も謝ろうと決意しながら。いただきます、と改めて食事にありつけたことへの感謝の意を伝える。
 夕餉の後に行われる会議が朔夜の生命線だ。少しでもマシな結果にならなければ命がない。
 それに備えて今は栄養摂取だと、勢いよく箸を南瓜に突き刺した。