三人を刀片手に盛大に説教した後、土方は不意に朔夜を見やり、もう牢に戻る必要はないとだけ告げた。
 説教にうんざりとし、もはや適当に聞いていた三人の視線が一気に朔夜に集まる。

「よかったじゃねえか、朔夜!」

 原田は誰よりも早く弾かれたように立ち上がる。朔夜に慌てて近寄ると、頭をぐしゃぐしゃと手加減なしで撫でた。まるで自分のことのように嬉しそうに笑いながら。

「…………」

 しかし、朔夜からの反応はない。原田は全く喜びもしない彼女を不思議そうに覗き込んだ。
 朔夜はただ呆然と何かを見ている。
 辿った視線の先は、土方の顔。原田も同じく、ただなんとなく土方を見る。
 朔夜と目が合い、次に原田と目が合う。そのたび土方の眉間の皺がまた一つ増える。二人の視線を一身に受けた土方はばつが悪そうに首の後ろを撫でた。

「……間者の疑いは晴れた。お前はもう自由だ」

 朔夜の目が緩やかに、その言葉を噛み締めるように見開かれていく。
 土方の台詞がゆっくり心の奥底まで染み渡ってから、ようやく朔夜は原田を見上げた。原田に初めて会った時に見せた、夏空に向かう向日葵のような笑顔で。
 牢での日陰者のような生活から離れることができる。死への恐怖にびくびくすることもない。
 やはりそれは朔夜にとって飛び上がりたいほど嬉しいものだった。

「やった! 原田さん、私、やっと自由に、」
「…………」
「原田さん?」

 原田から反応が返ってこないのに、恐る恐る名前を呼ぶ。
 原田ははっとしたように笑顔を作った。

「……ああ、よかったな朔夜」
「?、はい!」
「左之もこれで一安心だな!」
「煩えよ」
「牢屋とか女にはキツいよなー。今までよく我慢できたな!」

 笑い合う四人をよそに、土方は握りっぱなしだった刀を鞘に納める。そしてもう用は済んだと言わんばかりにさっさと踵を返した。

「原田、今日の夕餉にその女を連れてこい」
「……そりゃどういう風の吹き回しなんだ?」

 今まで罪人に近い仕打ちから一転。いきなりの良待遇に、原田があからさまに眉を顰めた。

「その女の今後の身の振る舞いについて話し合いたい。山南さんが興味があるんだとよ」







 借り物の着流しは原田の私服だ。紺色で、薄く竹の裾模様が入った風流な長着。それを引きずらないよう、朔夜は懸命に原田の後ろをついて歩いた。
 永倉と藤堂は一足先に広間にいる。二人が夕餉に向かおうとした時、原田が後から行くと言ったからだ。
 原田は土方が去ってから様子がおかしい。永倉や藤堂が喋るのにも、いい加減に相槌を打つだけだった。

 朔夜はというと、今後について考えていた。
 自由だと土方に言われた時は心の底から喜んだが、実際はそんな簡単な問題ではない。もしもこのまま新選組に放り出され、当てもない京の都で数ヶ月過ごすなら、乞食になって餓死して終わりだ。生き抜く自信は朔夜にはない。
 これからどうしたらいいのか、悩む前に道がぼんやりと示されたのは僥倖と言っていい。心宿は新選組と生活を共にすることを前提で話をしていたが、そんな都合良く物事が進むはずがないとばかり思っていた。
 朔夜としては、新選組に置いてほしかった。殺されるのは怖いが、それは沖田を避ければ問題はない。

――言っとくけどな、新選組はあんな奴ばかりじゃないぞ。
――そうそう。俺達だって、好んで人を殺してる訳じゃねーし。

 今日仲良くなったばかりの二人の言葉が頭に浮かぶ。
 何にせよ、死の恐怖は常たるものと心宿も言っていた。ここは二人を信じて、沖田に関しては堪え忍ぶ道を選ぶ。
 このチャンスに縋りつくしか手はなかった。

 その上で今の朔夜に重要な人物は「さんなんさん」なる人。
 自分に興味を持った「さんなんさん」は、恐らく今日来た眼鏡をかけた男性だろう。朔夜について、未来について、根掘り葉掘り訊いてきたためにこちらから原田のことを訊けず苛々してしまい、後から来た沖田にぞんざいな態度を取ってしまった原因。
 どことなく陰気で言葉の端々に刺々しさがあったが、あれぐらいなら世の中に溢れかえっているに違いない。それに、物腰柔らかな言葉遣いの裏で、着実に欲しい情報を掬い取ろうとする深い知性が窺い知れた。
 そういう面で有名であり、「さんなんさん」と呼ばれうる人物とは、新選組総長山南敬助に他ならない。
 何より朔夜が違和感を感じたことは、慈愛と残酷さ――相反する二つの性質が彼の中から感じたことだ。
 レンズの向こうには、底冷えするような光が見えた。沖田とはまた違ったある種の狂気すらも。
 総括として、あまり関わりたくない人相ではあるが、そうは言ってられない。

「原田さん」
「……んー?」
「あの、原田さん」
「…………」

 先ほどから山南について質問しようと話しかけているのだが、原田は生返事ばかりだ。そのくせ片手は朔夜の手をがっちりと握って離さない。その手は朔夜の手を包み込めるぐらい大きくて、暖かい。節くれ立った指や、たこができてごつごつしている手の平はとても原田らしいと思った。
 掴まれてない方の手で長着の裾を引っ張り、原田から離れないように歩くのは骨が折れた。考え事をしているためにゆっくり歩くが、それでも歩幅は朔夜のそれよりずっと大きい。
 それなのにこけそうになると、彼はすぐに気が付いて支えてくれる。見兼ねた原田に抱っこして連れて行こうか? とも問われたが、全力で拒否をした。恥ずかしさに頬を染めた朔夜をおかしそうに笑って、そうか、とそれだけ言ってまた手を引いて歩いた。
 大きな背中を眺めながら、優しい人だなぁと思う。
 牢の中で、束の間であるが、自分の置かれている状況を忘れさせてくれた人だ。その間、彼に対して助けてくれるなどと甘い希望を抱きはしなかったが、せめて帰るまでには何か恩返しができたらいい。

「着いたぜ」

 原田がとある広間の襖を開くと、千鶴を含んだ十人の幹部達の視線が一気に朔夜に集中した。どうやら朔夜の処遇について話し合うことは、土方から伝えられているらしい。
 ごくりと生唾を飲む。
 その威圧感はただ座するだけなのに、朔夜が感じたこともないものだった。
 息苦しさに飛び出したくなる。
 流石数多の血気盛んな部下を引き連れ、夜な夜な人を斬る者達だけある。
 この男達と関わったら、さぞかし自分も逞しくなるのだろう。小憎らしい神の笑顔が頭に浮かぶ。

 ふいに原田の手が離れ、あ、と声が漏れる。
 それを聞いてすぐさま原田は振り返った。元気づけるよういつもの笑みを見せながら。大丈夫だ、とぽんと頭に手を置く。

「お前の席はあそこな」

 そうして土方らが座っている場所の真向かいの、ぽっかり空いている空間を指さした。
 よりにもよってなんでそこなんだろう。
 数メートル先にいる土方の不機嫌そうな顔色が目に入って、独りごちる。しかし、それを今伝えられる訳がない。朔夜は怖ず怖ずと頷き、一歩足を踏み出した。
 が、勢い余って裾を踏んだ。



「うわあっ!!」



 べちゃ! と派手な音を立てて、広間で思いっきり転んでしまった。鼻の頭から顔面を強かと打ち付け、膝小僧も同様の始末だ。
 あまりの間抜けな光景に、原田すらも反応できなかった。
 ただでさえしんと静まった室内で、朔夜の存在はそれはもう痛々しいものと化している。

「…………」

 この状況を美しく切り抜けるにはどうしたらいいのか。朔夜は頭の中でスパコン並の速度で必死に自問自答を繰り返したが、何も思いつかない。
 もうどうにでもなれとがばっと体を起こした時、幹部の中で一番あたふたしていた永倉が顔を真っ赤にして叫んだ。

「うおおおおお朔夜ちゃんその体勢は駄目だ!!」

 駄目? と朔夜は挙動不審な永倉に首を傾げる。
 それを見て永倉は更に耳まで酔っぱらったように赤くなった。
 ますます意味が分からない。恥ずかしいのは私ですと思いながらふと隣を見ると、千鶴も雪みたいな肌をほんのりと赤く染めて朔夜から目を逸らしていた。
 藤堂も二人と同じく目を合わせてくれない。

「大丈夫か、朔夜」
「大丈夫じゃないです……」

 溜め息を吐いた原田にすっと手を差し伸べられる。もう泣きそうだった。

「左之! 早くなんとかしろ!」
「はぁ? 何のこ、」

 原田が朔夜を助け起こそうとした時、

「……嫁入り前の女が何やってんだ」

 とはだけた襟を掴み、さっと胸元を隠した。原田が三人と違うのは、表情が呆れていただけで、それ以外何もなかったことだ。
 朔夜はそのお陰で少し冷静に考えられた。
 しかし、すぐに後悔した。

 胸が、見えていた。三人がいたたまれない表情をする程度には。

 嫁入り云々の前に、人に曝け出していいような身体ではない。公開をよしとする痴女でもない。
 たちまち猛烈な羞恥が体中を巡る。痛みを越えて頭をじくじくと刺激する。背中が熱くも寒くもなり、顔にかあっと血が集まるのを感じた。 新選組屯所で堂々とこけた上に、猥褻物陳列罪。記録に残ったら未来の、というか現代の皆々様に申し訳が立たない。

「ごごごごめんなさい!! 本当にごめんなさい!」
「あの、朔夜さんまた……!」
「わあっ! 前屈みになるな朔夜ちゃんまた見える!」
「すっ、すみません!!」
「はいはいちっとは落ち着けな、朔夜」

 何度目か分からぬ頭への愛撫を受け、朔夜は途端に肩の力が抜けていく。

「ぷっ、あっははははは! これは千鶴ちゃんよりもひどいかもね!」
「おい、総司。そりゃ千鶴にも朔夜にも失礼だろ」

 真後ろから小馬鹿にしたような笑い声が起こり、収まりかけていた羞恥が再び蘇る。全くその通りだから頭が上がらない。
 顔を俯かせた朔夜や千鶴を気の毒に思ったのか、原田が口を挟む。

「失礼って……朔夜ちゃん本当に鈍臭いじゃないですか。ねぇ、朔夜ちゃん?」

 しかし、沖田はどこ吹く風だ。
 にんまりと笑いかけられたのに、朔夜は顔を引き攣らせた。
 そして、ようやく静かな雰囲気に戻りかけた時に、それは起きた。



――ぐぅううううううう



 胃が、それはもう物凄い音を出して空腹を主張していた。

「…………」
「…………」

 来る日も来る日も夕餉のみであるため、一日三食が常識であった朔夜の身体はしきりに栄養摂取を要求した。毎日麦の割合が圧倒的に多いご飯に味噌汁と漬け物のみ。現代の食生活に慣れきった朔夜には流石に足りない。
 しかも、時々味噌汁の味付けがとんでもないことになるので、ご飯しか口にできない日もあった。千鶴が申し訳なさそうに謝っていたのが思い出される。
 とにかく、そういう理由もあって、この時間帯になるとこれ見よがしに腹が鳴る。
 千鶴に聞かれた時はただ恥ずかしかっただけだが、今は穴があったら入りたいし、いっそ消え去りたいぐらいだった。

「…………原田さん」
「…………なんだ」
「私を牢にぶち込んでください」
「諦めて飯食え。俺の魚やるからさ」

 そこで一旦、会議の前に夕餉を挟むことになった。