土方が自室を出たのは、宵七つを越えようとした時だった。といっても夏真っ盛りなので陽も暮れ始めたばかりだ。
 ただ、土方は歩いていた。
 ぎしぎしと軋む廊下を、長い艶やかな黒髪を靡かせて颯爽と進んでいく。思案中の真剣な表情は、紫色の瞳が翳って違う色を見せ、女なら誰しもが溜め息を吐くような相貌を覗かせる。
 しかし、眉間に皺を寄せ、眼光鋭く眼前を睨む副長の姿は流石に恐ろしくて通りかかる誰も触れようとしない。それをいいことに土方はずかずかと廊下の真ん中を闊歩した。

 これ以降、幹部全員が集まるのは夕餉の時間だ。その際、女が新選組に留まることの是非を問おうと考えた。ついては女自身の意見も聞いてみたい。原田に湯浴みを命じ、皆に引き合わせてから話し合う。
 そういう算段を頭の中で組み立て、土方は原田の私室に向かっているところだった。
 沖田の尋常ではない雰囲気からも、少なくとも女は間者ではなかったのだろう。間者と断定したなら、あの男はへらへら笑って殺したことを伝えるはずだ。千鶴にすらも口を開けば殺すだ何だと言っていただけに、女を殺した程度であんな暗鬱とした声を出す訳がない。去り際の台詞が気になるが、今は考えない。その事実だけで十分だ。
 未来から来たという証言を信じるか否かは、土方にとって正直どうでもよかった。否定すれば証明できないことは山ほどある。だがしかし、それが新選組に何の意味があるのか。たった一人の女に左右されるような組織ではない。土方は山南とは正反対の考えだった。そのことについては思考停止していいだろう。
 重要なことは、山南があの女に執着していることだ。
 女がもう一人増えるのは、男所帯では邪魔だし食費がかかるし扱いも面倒なのだが、それで山南の気が紛れるならと土方は妥協した。もしかしたら鬱ぎ気味の山南に何か変化を与えるのかもしれない。女と対面した沖田の様子が負の面でおかしかったのを考えると、憂鬱にしかならないのだが、ただ手をこまねいて、徒に時間が過ぎるのよりはマシだと思った。
 しかし、上記の通りなので、放り出したいというのも正直な気持ちだ。

 原田の私室に近付くにつれて、三馬鹿がぎゃあぎゃあ騒ぐ声が聞こえてくる。今日は三人揃って非番だったので、原田の私室に集まっているらしい。
 蒸し蒸しした空気を吹き飛ばすように、彼らは今日も賑やかだ。

「おい、こいつにべたべた触んじゃねえ新八」
「なにぃ!?お前には関係ねえだろ!」
「なあなあこっち来ていろんな話してくれよ!」

「抜け駆けすんな平助!!」

 どうやら千鶴もいるようだ。いつも酒が入ったかのように馬鹿騒ぎする連中だが、千鶴が絡むとそれは増す。
 廊下にまで響き渡る声に頭が痛くなる。
 しかし、彼女がいるなら話は早い。ついでに今晩の夕食にもう一人分追加する旨を伝えようと考えながら、足音を立てて近付いていく。
 そして合図もなく障子を開けた。

「邪魔するぞ」

 三人が表情、動き共にぴたりと固まった。特に藤堂や永倉は挙動不審に視線を逸らし、どこかそわそわしている。ただ原田だけはげんなりと深い息を吐き、ぽりぽりと頬を掻いた。
 土方は怪訝そうに三人を順に見やる。

「ひ、土方さん……」
「?何だ、一体どうしたって、ん だ……」
「…………」
「…………」

 一歩室内に踏み込んだ時、すぐ下に見慣れない後ろ姿があった。背中まで伸びた緩やかに巻かれた珍妙な髪に、ぶかぶかの紺色の着流し。千鶴には負けず劣らず小さな背中は、新選組隊士には存在しない。
 それは、つまり――

「?」

 その女が振り返った瞬間に、腰に提げた刀を抜刀していた。

「牢にぶち込んでた女を俺に断りもなく出すとはどういう了見だコラァ!」
「ひぃっ!」

 鼻先すれすれに光る刃に、女はまるで化け物でも目撃したかのようにみるみるうちに顔を引き攣らせた。女にとっては本日二度目の生命の危機だ。瞳には一瞬で涙が溜まり、ぷるぷると子犬のように震えて土方を見上げている。
 しかし、それで勢いが削がれる土方ではなかった。
 実のところ疑いが晴れた女より、怒りの矛先は三人へと向いている。刀の切っ先が女に向けられているのは、たまたま距離が近かったからだ。
 牢から勝手に捕らえていた女を連れ出すなど言語道断。隊の規律を乱す者は死あるのみだ。

「おおお落ち着け土方さん!」
「そっそうだよ女に刀向けんのはダメだって!」

 四人はそれに気付かない。
 慌てて永倉と藤堂が落ち着くよう説得してもまるで効果がない。抜刀した刀はそのまま女に向けられている。
 女が斬られると思った原田は急いで土方の前に立ちはだかり、女を背後に隠した。その顔には焦りを含みながらも、内心で沖田に悪態をついた。
 何故女を解放したことを土方に言わなかったのか。
 とにかく女に罪はない。原田が言いたいのはそれだけだ。

「こいつは悪くねえ、むしろ俺が悪い!だから、なっ!刀を下げ、」
「お…て……ろ……」
「え?」

 ぼそり、噴火前の予震のように小さく低い声が、各人の不安を煽る。



「介錯してやるから三人揃って表へ出ろてめえらぁああああ!!」