それは厚い暗雲に覆われて、星一つ見えない夜だった。泥と血の混ざったような匂いが立ち籠める中、私はずぶ濡れになることも厭わず、呆然とその場に立ち尽くしていた。

そこは正しく地獄だった。住み慣れた街は跡形もなく破壊され、辺りには死体がごろごろと転がっている。そして、私の足元には双子の片割れである秀次と、彼の腕に抱かれたまま微動だにしないお姉ちゃんの姿があった。お姉ちゃんの胸元からは大量の血が溢れ、秀次の学ランを赤く染めている。
一体何が起こっているのか、なかなか理解が追いつかなかった。夢でも見ているんじゃないかとさえ思った。それくらい一瞬にして呆気なく、お姉ちゃんの命は奪われてしまった。

姉さん、姉さんとずっと泣きながら呼び続けていた秀次はやがて静かになると、すっかり体温を失ってしまったお姉ちゃんの頬をそっと撫でた。眠っているお姉ちゃんは本当に綺麗な顔をしていて、死んでいるなんてとても信じられなかった。
なんで姉さんだったんだ、と秀次が静かに呟く。私は何も返すことができなかった。俯いていた秀次がどんな顔をしていたのかはわからなかったけれど、その言葉はまるで、“おまえが代わりに死ねばよかったのに”と私を責め立てているように聞こえた。

罪人を打ち据えるかのように雨が強くなる。あのとき、私がああ動いていればお姉ちゃんは殺されずに済んだかもしれない、なんて後悔ばかりが次々と頭に浮かんだ。そんなことを考えても今更どうしようもないってわかってはいるけれど。
ふと視線を落とせば、ぐっしょりと濡れて重たくなった中学の制服が目に入った。お姉ちゃんのお下がりであるその制服は逃げ回るうちについたのか、所々泥や埃で汚れてしまっている。初めてこれを着たときはあんなに嬉しかったのに、今はこの制服を着て立っているのが自分だということに対して、罪の意識で溺れてしまいそうだった。

雨はよもすがら降り続ける。私と秀次は彼女の死を見守りながら、永遠とも思えるほどの長い夜を過ごした。



「姉さんを真似るのはやめろ。」

真似ているつもりはなかった。ただ日毎にやつれていく秀次のことが心配で、つい世話を焼き過ぎてしまっただけだ。地面に散らばってしまったクッキーを拾いながら、私は涙ぐみそうになって唇を噛んだ。

年月が経つのは早いもので、三門市に異世界へのゲートが開いてから4年半が経とうとしていた。あれから秀次はボーダーに入隊し、任務や訓練やらで毎日忙しそうにしている。
始めは私も秀次と一緒にボーダー隊員になろうと考えていたのだけれど、鈍臭いおまえに勤まるはずがない、と秀次に猛反対され、断念。私はボーダーに入らず、戦闘とは無縁の平穏な高校生活を送っていた。
だから、ここ最近は秀次と一緒に居られる時間はほとんど無くて、彼が何を抱えて、どんな毎日を送っているのかを私は知ることができなかった。

ーー秀次をよろしくね。

中学校入学式の朝、先に出た秀次を追いかけようと急いで靴を履いていた私に向けて、お姉ちゃんはそう言った。物静かで無愛想な弟が中学でうまくやれるのか心配して言ったのだろう。わかった!秀次のことは私に任せてよ。あのとき、私はそう返したのに。ごめんね、お姉ちゃん。
私は今の秀次がわからない。彼を理解してあげることも、力になってあげることもできない。それどころか最近の私は彼を苛つかせてばかりだ。昔はいつでもどこへ行くにしても一緒で、周りから仲の良い兄妹だって言われていたのに。

私は拾い集めたクッキーを戸惑いなくキッチンのゴミ箱へと放り込んだ。お菓子作りは昔と比べて見違えるほど上達したのに、肝心の食べてほしい相手に食べてもらえない。それってすごく切なくて、苦しくて、まるで失恋したみたいだと自嘲めいた笑みが溢れた。
窓の外は地を打つような強い雨が降り続いている。あの日お姉ちゃんと交した約束を、私はちっとも守れそうになかった。



「なまえって髪の毛サラサラだよね。」
「ほんと!綺麗な黒髪ロングで羨ましい!」

熊ちゃんやクラスメイトの女子達に髪を褒められて、私はそうかな?と照れ臭そうに頬を掻く。髪のお手入れは私が1番気を遣っているところだった。シャンプーやトリートメントには強いこだわりを持っていたし、ドライヤーやオイルケアも毎日欠かさず行っていた。
お姉ちゃんの絹糸のような細く艶のある黒髪に憧れていたから。みんなに綺麗だと褒めてもらえて、内心すごく嬉しくて舞い上がっていた。

だから、きっと罰が当たったんだろう。クラスメイトの子達にヘアアレンジしてもらった髪でウキウキしながら一日を過ごして、放課後。
部活中に突如鳴り響いた警報音に、その場にいた生徒達は全身を強張らせた。窓の外を見れば、校庭に開くはずのないゲートが開き、そこから数体の近界民ネイバーが顔を覗かせていた。

近界民だ!どうして学校に!?早く逃げろ!誰か助けて!逃げ惑う生徒達の悲鳴が耳をつんざく。外には帰宅しようとしていた生徒や部活中の運動部員が大勢居た。
死の恐怖に脅えた顔、救いを求める声、一瞬で壊される日常。目の前に広がるもの全てが、“あの日”の光景と重なった。茜色に染まった空が真っ赤な血のようにすら見えて、刺すような顫動が背中をかけめぐる。
顧問の先生が屋上に避難するよう部員達に呼びかけている中、その場にペタリと座り込んでしまった私は、自身を抱えるようにしながらガタガタと体を震わせた。

廊下から何かが壊れる音が聞こえる。気づけば、部室には私だけが取り残されていた。逃げなくちゃと頭ではわかっているのに、体が思うように動いてくれない。
やがて、けたたましい音を立てて部室の扉は破壊され、大きく開けられた穴から顔を出した気味の悪いモノアイが室内をぐるりと見回した。ひっと短い悲鳴が口から漏れ出る。私の姿を捉えた近界民は、真っ直ぐこちらへ足を向けた。

「い、やだ……来ないで。助けて、お姉ちゃん…!」

ーー大丈夫よ。落ち着いて、なまえ。
ーーここはお姉ちゃんに任せて、ね?

私を置いて走り去っていくお姉ちゃんの後ろ姿がフラッシュバックする。あの日、私を近界民から隠して、自ら囮役を買って出てくれたお姉ちゃん。
例え絶望の淵に立たされていたとしても凛々しく勇敢で、そんなお姉ちゃんのことが私は大好きだった。憧れの存在だった。でも、次に会ったとき、彼女は帰らぬ人となっていて…


ーーなんで姉さんだったんだ。

ふと泥と血の混じり合ったような匂いが鼻を掠める。濡れている筈がないのに、水分を吸ったかのように重みを増した制服。奪われていく体温。そこは二人で寝ずの番をした、あの雨の降る夜だった。心の芯まで凍るような冷ややかな彼の幻聴が、私の息を止める。

“おまえが代わりに死ねばよかったのに”


ドンッドンッドンッ!!

「っ、」

室内に重い銃声が鳴り響く。私を現実へと戻したその音の先には目尻を釣り上げ、険しい顔でこちらを睨みつける秀次の姿があった。彼が撃った弾は、正確に敵を撃ち抜いたらしい。六角柱の錘が突き刺さった近界民は機動力を失い、地面に伏していた。
秀次、と呼ぶ声が情けなく震えてしまう。怖かった。死んじゃうかと思った。助けにきてくれてありがとう。伝えるべきことは沢山あったはずなのに、咎めるような蔑ずむような目で見下ろされた私は、何一つ言葉にすることができなかった。

「……戦闘は終了した。外で点呼をとっているから、さっさと移動しろ。」

秀次はそれだけ言って踵を返す。待って、置いて行かないで。咄嗟に手を伸ばしても届くことはない。これが今の私達の距離だった。
秀次は私を助けてくれた。でも、心配はしてくれない。家族なのに。双子なのに。無事を喜んで、安堵の息を漏らすこともない。彼の冷徹な視線を思い出し、ついに涙腺が緩んだ。秀次にとって私の存在なんてその程度のものだったのか。

はらり、と黒髪がこぼれ落ちる。せっかくアレンジしてもらった髪が解けてしまったらしい。憧れのお姉ちゃんと同じ髪。もしも私がお姉ちゃんだったら、秀次は焦りを見せてくれただろうか。生きててよかったと泣いて喜んでくれただろうか。
そんなことを考えたって無意味なことくらいわかってる。だって、どうしたって私は、お姉ちゃんの代わりになんてなれっこないのだから。

「私が代わりに死ねばよかったのに、ね。」

ガタン、と近界民が音を立てた。顔を上げれば、機動力を失った近界民が蜘蛛のように長い腕だけをひたすら動かしている。腕の先に着いたブレードがギラリと反射し、私は思わず唾を飲み込んだ。
傍にあった机に掴まって、ゆっくりと立ち上がる。先程までは全然動けなかったのに不思議だ。私は引き寄せられるように、近界民のもとへ歩き出していた。

ギョロギョロと動いていた視線が、私だけに固定される。その長い腕を伸ばせば届いてしまう距離まで来た私は、ふっと思わず微笑を溢した。きっとすごく痛いんだろうな。でも、これはお姉ちゃんを殺して幸せになろうとした私への罰だから。

遠くで誰かの声が聞こえる。何かを叫んでいる?……でも、ごめんね。雨音がうるさくてよく聞こえないの。寝ずの番をしたあの晩から、ずっとそうだった。ざあざあと絶え間なく降り注ぐ後悔の雨。
でもね、きっともう大丈夫。詩人がよく使うでしょ、止まない雨なんてないって。

腹部に鋭い痛みが走る。すると、それまで聞こえていた雨音がピタリと止んで、視界一面に白い光が射し込んだ。ああ、やっと夜が明けたみたいだ。








双子なのに似てないとよく言われていた。活発で落ち着きがなくて、コロコロと表情が変わる。俺の妹はそこに居るだけでぱっと辺りが明るくなるような、そんな太陽みたいな奴だった。俺にとって唯一無二の存在だった。
姉さんが憎き近界民に殺された日から、こいつだけは絶対に俺が守らなければと堅固な決心で戦ってきた。彼女の笑顔を思い起こせば、どんな過酷な任務も、訓練も全く苦には思わなかった。それなのに、なぜこうなってしまったのか。

消毒薬の匂いが籠る病室で、口元に酸素マスクを装着したなまえはあどけない表情で眠り続けている。その腹部に巻かれた包帯がなんとも痛々しく、俺は眉間に深い皺を寄せた。こんなはずじゃなかったのに。どうして、俺はどうすればよかったんだ、姉さん。雨戸を叩く雨音を聞きながら、なまえのもとへ静かに歩み寄る。

「生きていてくれればいい。おまえが幸せそうに笑っていてくれさえすれば、他には何もいらないから。」

だから、頼むから。早く目を覚ましてくれ。真っ白なシーツの上に広がる長い黒髪を一房掬い上げ、俺は祈るように目を閉じた。夜はまだ明けてくれない。

 
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