手紙
あの身勝手な女が帰ってからの室内は、まるで不幸があったかのような静けさしか残らなかった。
沈黙がひどく重苦しく感じたのは、おそらく初めてではないだろうか。
「……彼女でしょう、さっきの人」
先に唇を開いた彼が、俺の顔も見ないでゆっくりと話す。まるで床に何かがあるかのように、じっ、と一点を見つめて。
「恋人と会ってたなんて知らなかった。いきなり家にも来るしさ、もうびっくりだよ」
ははっ、という嘲笑を漏らした木下が、軽く俺を睨む。
「美由……アイツとは、たまたま居酒屋で一緒になったんだ。送ってくれたのも、後輩が言い出したみたいで……報告した方が、良かったか?」
木下の目が微かに見開いたのが分かる。
怒るでも呆れるでもなく、ゆっくりと閉じられる瞳は、同時に長い睫毛を揺らす。
「いくら俺の家だからって、勝手すぎたよな。すまない。俺も、久しぶりに呑んだから酔っちまって」
誤魔化すように頭を掻くと、すぐさま向かいの男が首を振った。
今にも消えてしまいそうなか細い声が、いや、と呟く。
「いや、違うよ。……日比谷は、彼女が他の男と遊んでいるのを見て、嫉妬したんだよ。だからヤケになって、呑みすぎたんだよ」
小さく吹き出し笑った木下が、俺を真っ直ぐ見て言う。
でもそれは、わざと作った笑顔のような、上手く言えない違和感があった。
どうしたんだ?と聞くのには不自然で、何が正解か分からないまま、口を閉じることしかできないでいた。
「さてと、俺はまだ支度があるから、続きをしてきますかね〜」
「じゃ、じゃあ俺も、着替えてくる」
「あっ、待って!日比谷はまだ酔いが冷めてなーー」
慌てた声色は届かず、少し膝を伸ばしただけの体は自分の体重を支えきれずに前へぐらりと揺れる。
あ、バランスを崩す、と分かっていても、頭は言うことを聞かなかった。
「日比谷!」
俺を支えようと伸ばされた細い腕を、俺は必死に掴もうと伸ばしていた。しかし想像以上に弱った頭脳は虚しく、持っていたことを忘れていたグラスが宙を舞う。それもまた、声も出ないまま脳裏でぼんやりと、危ない、と叫んでいた。
「え」
木下の短い驚きを聞いたのを最後に、二人は地響きのような音を立てて地へ着いた。辛うじてクッションの上に落ちたグラスが、ゆっくりと地面に落ちて止まる。
濡れた俺の髪が、下敷きにしてしまった木下の顔にポタポタと落ちる。
彼の頬を、涙みたいに伝って流れていく。
「わ、るい……」
「いや、だいじょうぶ……」
彼の力んだ手のひらが、彼方此方へぶつかった時にばら撒いた紙くずを握る。クシャ、と高い音が響いた。
「あっ……ごめん、大事な書類とか、なかった?」
彼が起き上がろうとするのと同時に、俺も木下から離れた。
二人して妙に気まずい雰囲気のまま、辺りを片付ける。
「あれ?これって……」
彼の声で見上げると、握られた手には一枚の手紙。
宛先は、木下裕也。
「ッ……な、なんでもないから!!」
乱暴に奪い取ろうと手を伸ばしたが、軽く交わされてにやりと笑う。嫌な笑顔。
「ふふっ、凄いもの見つけちゃったな」
「勘弁してくれ……」
「俺宛、だよね。だったら見ても問題ないでしょう」
「冗談じゃない!」
前髪を掻き上げて頭を抱えると、木下が楽しそうに声を出して笑った。
目を細めて笑う彼が愛らしくて、自分の腕で隠れるようにして彼の表情を盗み見た。
ーー好きだと、そう気付いてしまってからは遅かった。
上手く回らない頭が、瞳が、彼だけを追って熱を纏う。
別れを告げそびれた中学二年生の冬、あの日、本当は彼に好きだと言いたかった。
まだ純粋な恋慕を、まるで正当なものとして終わらせたかった。
勇気がなかったと言ってしまえばその通り。伝えられず宙を舞っていた感情は、いつしか汚れたものへと変わって再び地についた。
この薄汚れたラブレターは、あのキラキラと輝いていた冬に、彼に渡すはずだった人生初の恋心だったのだ。
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