十歳


自宅マンションの階段を登って、部屋に電気がついていることにホッとした。

玄関へ入らなくても漂う食欲をそそる香りは、いっそうこの生活への執着を感じさせる。

幸せだ。俺はきっと、こういう生活を望んでいた。




「遅い!」


扉を開けて直ぐ、木下が声を荒げたので驚いた。

目をパチパチとさせた俺に大きなため息をついて、呆れたようにまたキッチンへ戻っていく。


「えっ……ど、どうかしたのか」

「どうかしたじゃないよ。昨日、日比谷が店に来たくらいを目安にして夕食を作ったのに、ぜんぜん帰って来ないから冷めちゃった」


なんだ、と下らなく思いながらも、家事をしてくれていたことを嬉しく思う。


「先に食べてても良かったのに」


素直にごめんも伝えられずに重い鞄と上着を片付けながら告げると、軽く頬を膨らませた木下がこちらを睨む。

あ、怒らせた。


「おっ、遅くなって、ごめん。わざわざ作ってくれて、ありがとう」


あらかじめ用意されていた言葉を並べるかのように片言で呟くと、厳しい顔をしていた木下の表情が、ふっ、と柔らかくなった。


「ははっ、変なの」


吹き出すように笑った彼は足早に俺に近づくと、鼻先を向けて匂いを嗅ぐ。


「酒の匂いがする。飲んできたの?」


もう怒っていないらしい彼に「恵太さんのところで一杯だけ」と正直に言うと、「これからは連絡してくれないとなあ」と困ったように笑って俺に背を向ける。


新婚みたい。本当に、新婚みたいだ。


「き、木下。弁当、ありがとうな。でもさすがに、あれはちょっとやりすぎ……」

「日比谷がどんな反応するかなぁ、って思って」


子供みたいに笑うこの男が、ひどく愛おしく感じた。


「腹は減ってる?昼間に買っておいたから、昨日よりは豪華だよ」

「あ……そういえば、昼間って……」

「バイトしてるんだ。ここから二駅離れた、駅前のコンビニで」


どうやら、一応アルバイトはしているらしい。
机の上に鍵を置いて行って正解だった。


本当は出て行くのではないかと思った。だから鍵を置いて、木下の様子を密かに伺っていたのだ。


まだいる。
まだ傍にいてくれている。



「食べたいな。先に夕食にしてくれ」

「りょーかい」



十歳の冬、俺はこの男に恋をした。



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