初恋のきみ
風呂場から戻ると食欲をそそる香りが広がった。
自分がその場にいないのに、リビングから人の気配がするのは違和感があった。彼女と部屋で寛いでいても、こんなにも生活感があることはほぼない。いつも俺ばかりが動いて、彼女は携帯ばかり見ているからだ。
「あ、お疲れ」
ソファに寄りかかってクイズ番組を見ていた木下が、俺に気づいて軽く笑った。
少しだけ懐かしいと感じる、幼い笑顔。
「日比谷、冷蔵庫に何もないんだな。びっくりしちゃったよ」
笑ながら立ち上がった木下が「和風パスタにしてみたんだ」と言ってキッチンから皿を持ってくる。
「口に合うか分からないけど」
「いや、ありがとう。ビール飲むだろ?」
冷蔵庫から冷えたビールを取り出して木下に渡すと、ありがとう、と言って二人並んでソファに腰を下ろした。
プシュッという炭酸が抜ける短い音が漏れ、いっそう食欲が増す。
木下の、俺の初恋の相手の手料理。
これは夢なんじゃないか。あるいは幻覚や妄想なんじゃないか。そう思えるくらいに見慣れない光景だった。
「あんまり家に呼んでないんだね、彼女」
早速彼が作ってくれたパスタを口にして、目線だけを声のする方へ向ける。
「女っ気ないなあって思ったんだよ。本当に、男の一人暮らしそのものだったから」
どんな些細なことでも笑いかけてくれるのが嬉しくて、ぼんやりと彼に見惚れてから、暫くして口を開いた。
彼の小さな唇に細い麺が吸い込まれて行く。
「アイツには金しかかけてないよ。セックスは他の男としてるんじゃないの」
「浮気じゃん」
「確証はないけど」
確証はないけど、確信はある。
「ああ、だから日比谷も浮気してるのか」
「俺はしてない」
食べやすいツナの味がするパスタはもう既に白い皿を見せていた。それと並行するように、缶ビールがカラカラと少ない酒の量を知らせる。
「一度も男と寝たことないの?」
テレビの音声が遠く聞こえた。最近人気の芸能人が、今夜から始まるであろうドラマの宣伝をしている。
俺は雑音でも聞くようにして意識を遠のかせ、独り言のように「……ない」と漏らす。なんだか恥ずかしくて声が小さくなった。
「なんだ、じゃあ本当に飲みに来てるだけだったんだ」
つまらないの、と言うように一気にビールを飲み干した木下が、新しい缶を引っ張り出してすぐさま蓋を開ける。
「……木下は、まだあの先輩と付き合ってるのか」
ピタリと動きが止まった木下が、ああ、と小さく漏らして俯いた。
「ああ……日比谷は、あの頃のままで止まってるんだね」
手元で遊ばせている缶ビールが、電気の明かりに反射してチカチカと光る。
彼の、寂しそうな表情と笑い声が上手く合わなくて、不思議だった。
「日比谷が引っ越して直ぐ、先輩とは別れたんだよ。先輩の卒業式のとき、思い切り振られた。女々しく引き止めたらさ、お前なんて本気じゃなかった、って……。面白半分で付き合ってたんだってさ。参ったよね」
「じゃあ今は……」
「別の人と付き合ってる」
少しだけがっかりしたのは何故だろう。
こんなにも落ちこぼれた彼に、何を期待したのだろう。
「浮気じゃん」
木下の言葉を真似て言うと、ふふっ、と笑って「俺はいいんだよ」と誤魔化された。
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