雨上がりの朝




まるで世界を遮るような、ひとりだけポツリと取り残されてしまうような、あの不気味な音と纏う空気が嫌いだった。














「もう五年も前になるのか」


仕事場である小さな美術館のいつもの場所。
もうずいぶんと前から愛してやまなかった妻の絵を見ながらぼうっとしていると、山中さんが背後から声をかけた。



「早いものですよね。歳をとるとどうもあっという間で、無駄な時間を過ごしていないか一日の終わりにいつも焦ります」

「桑原くんはまだ若いさ。僕なんて孫が大学生になる」


格好の悪い曲がった背中と白い髪が似合う彼は、俺を受け入れ、そして妻の作品を飾ることを許してくれた張本人だ。
彼には感謝しきれないくらいの思いを抱いている。今もなお。





「……“もう五年”。でも私にとったら、まだ五年なんです。早すぎました、この五年間は」


ふう、と一息付くと、微かに聞き覚えのある声が俺を呼んだ。


「クワハラさん!」

「え?」



振り返ると、涼太くんと同じ制服を着た男の子の後ろに、隠れるようにしてセーラー服を着た女の子が後をついた。

あの二人は確か、涼太くんのーー。



「あれ、本当にあってんのかな。クワハラさんじゃないんじゃないの」

「あってるよ。私見たことあるもの」


戸惑い気味に近寄ってくる二人に、俺はなるべく温かい笑顔で「こんにちは」と返した。


「ほらね、あっていたでしょう」


栗色の、柔らかそうな髪を靡かせた彼女がこころなしか俺を睨んでいる。無理もない。


「よかった〜。俺、初めてだから不安だったんすよ」

「君たちはお友達だったんだね」


チラリと彼女の様子を伺うと、あからさまに視線をズラされた。


「はい!あ、涼太はいないっすよ。あいつ、今日はバイトなんで」

「そうなんだ」


隣できょとんとしている山中さんに、俺は「近所の学校に通う高校生たちです」とだけ伝えた。山中さんも、そうか、と微笑んで気を遣い持ち場に戻っていった。






妙な沈黙が流れる中、どうしたらいいのか分からずに再び妻の絵を見た。
温かくて、でも寂しげな、二度とない時間の絵。



「……涼太くんに聞いたんです」


予想外に先に口を開いたのは後ろの彼女だった。


「夏休み中、私が聞きました。いろいろと」


不覚にもドキリとした。

俺と涼太くんの関係をきっと彼らは知っている。
ーー馬鹿にされてしまうだろうか。俺のせいで大切な友達を失う羽目になったらどうしよう。



「といっても、やっぱり詳しくは話してくれなかったけど……。奥さんを亡くしてる、とか、それだけ話してくれました」


一瞬、彼女も俺の真横に飾られている絵画を眺めた。



「どうして、涼太くんなんですか。本当に涼太くんのこと好きなんですか」


妻を忘れられないくせに。

そう言われているような気がして、何も言えなかった。



「お、おい、雪菜ちゃん……」


止めに入った彼を気にもせず、彼女は恐ろしい表情で続ける。


「答えられないじゃないですか。そんな中途半端な気持ちで、涼太くんをゲイなんかにしないでくださいっ……!」


隣の彼の指先がピクリと揺れ、そのまま俯いた。





むずかしい。


誰かを好きになるって、すごくすごく、むずかしい。






「ーー無理に妻のことを忘れなくていいって、涼太くんは言ってくれた。もちろん、だからといって涼太くんを二番手に思っているわけではない」



酷いものだと思った。


たったの五年だ。五年しか経っていないのに。



「彼が好きだよ。涼太くんを愛してる。たぶん、ずっとーー」


そっと妻の絵を撫でると懐かしい感じがした。


絵の具の重なる感触。
掠れた筆の跡。
滲む色。


「人の気持ちや想いなんて、何かの拍子にコロリと変わる。恐ろしいものだね。でもその想いさえ伝えられないのは、もっと恐ろしい」


情けない表情を浮かべながら告げると、彼女は小さく「ごめんなさい」と謝った。


「いいや、悪いのは私のほうさ。君たちの大切な人を、正しい道に進ませてあげられなくてすまない。本当に、申し訳ない」


下げた頭の上で、二人は何も言わなかった。





気を遣ったのか、少年が声をあげて笑顔で言う。


「凄いじゃん!涼太やクワハラさんにあそこまで言えるなんて」

「ううん、そんなことない。……本当は、一番自分勝手なのは私なの。男が好きですって振られた挙句、好き同士なのに報われない惨めな涼太くんを想っていましただなんて、格好つかないでしょう」


彼女は情けなく笑うと俯き、クワハラさんの気持ちも、と続けた。


「クワハラさんの気持ちも……分かる、なんて涼太くんに言ったけど、ダメね。ぜんぜん分かってない」


落ち込んだような、切り返したような大きなため息をついて、眉を下げながら彼女は笑った。


「……すごいなあ、クワハラさんは。大人だなあ」

「そんなもんだろ。俺だって、まだまだ大人になんかなれないし」


俺は君たちの方がすごいと思うよ、とは言えなかった。


涼太くんは話したんだ。これから先、何十年も付き合っていくだろう友人に、隠さずに全てを話したんだ。

そして二人は受け入れたのか。世間一般的に批判されてしまうこの感情を受け入れ尚、大切な友人の心配をしてここまで来たのか。


すごいな。強いな。















「あの学生さんたちは帰ったのかい」

「はい。一通り案内して、帰りました」

「いやあ、学生はいいね」


山中さんが背もたれのある椅子に深く腰掛けて言った。


「はい、真っ直ぐで……羨ましいです」


俺にもあんな時期があった。あったはずなんだ。


「……山中さん、私、まだ妻のこと忘れてないですよ」


愛する女と出会ったこと。
秘密基地を共有したこと。
恋をしたこと。
何度も何度も、愛し合ったこと。

それでもすべては終わること。


「でもまだ五年なんです。たったの五年。自分のこと、許してはいけないって分かってるのに」


好きだよ、愛してるよって涼太くんに言われると、自分のことさえ好きになってしまいそうな気がして。


「……君は自分を責めすぎなんじゃないかい。天国の奥さんも、誰も君を責めちゃいないさ」



「はい……はい。ーー私、雨が好きです」





まるで世界を生み出すような、ふたりだけに分かる傷を癒すような、あの心地良い音と纏う空気が好きだった。




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