雨が止んだなら


「涼太くん、湯加減はどうかな。油断をすると風邪を引いてしまうから、きちんと湯船に浸かるんだよ」

「は、はいっ」


いつもは脱衣所まで声をかけに来ないので驚いた。まあ自分の家なのだから、どう動き回ろうが当人の勝手なんだろう。

そう気にせずにいても、一向に彼の影が消えそうにない。




「……桑原さん?」

「あ、すまない。気持ち悪いよね」


明らかに落ち着かない様子の桑原さんに、いいえそんなことは、と曖昧に濁して言葉を繋げた。



「……このあと夕食を済ませて、そしたらあっという間に君が帰ってしまうのかと思ったらどうも落ち着かなくてね。胸の辺りがこう、妙に騒ついて、何か焦っているんだ」


扉の向こうの桑原さんが、眉を下げて笑いながら言う姿を想像できた。それでも返す言葉が見当たらない。
風呂場の水がポチャンと音を立てて落ちる。



「帰ってしまうよね、涼太くんは」



掠れたような小さな声が聞こえて、俺は数秒後、「……はい」と独り言のようにボソリと返した。




外の風が強さを増し、窓を叩いて今にも外れてしまいそうな恐ろしい音が鳴り響く。



「でも君は、私が無理矢理抱こうとしても、きっと拒まないだろう」

「ーーえ」

「涼太くんは許してくれる。それを分かっていてやろうとしてしまう自分が、酷く嫌なんだ」


想像してゾッとした。


それは彼が俺に行おうとしていた行為ではなく、それに対する俺自身の反応。


確かに俺は、桑原さんを拒まないだろう。むしろ主人を求める犬のように寄り添っては身体を擦り付け、嬉しいと甘い声で喘ぐのだろう。




自分はなんて愚かなのだろうか。



「ごめんね、変なこと言って」


ずるずるとその場にしゃがみ込むように、彼の影が縮まっていく。





「ーー好きだよ。大好きだよ、涼太くん。愛してる。……さみしいよ、ひとりきりでこんなにも大きな家、苦しいよ。怖いよ」


桑原さん、と呼ぼうとして、声が出なかった。

開けられた口だけ不細工に彼の名を刻み、行き場を無くした言葉が宙に浮かぶ。







俺はなんてことをしてしまったのだろう。良かれと思ってしてきたことは全て自己満足で、その結果にすら後悔した。
俺は彼を傷付けた。宮崎さんの言っていた通りだ。俺は誰かのせいにして、真剣に桑原さんと向き合おうとしなかったんだ。





初めて聞いた彼の本音はあまりにも幼くて、嵐のなか母親の帰りを待つ赤子のように思えた。






「くわ、は、……さ、」


口の中が乾いて上手く声に出せなかった。
濡れた髪から流れる雫と誤魔化して、この目から音もなく涙が流れ続けた。


静かに、静かに。



「涼太くん」

「桑原、さん……ッ」

「涼太くん」

「桑原さんっ!」


呼んだら返ってくる、そのことが嬉しくて、幾度も彼の名前を呼んだ。仕舞いには考えもなしに扉を開けて、彼の驚いた表情ごと抱き締めた。


「お、れっ……無理だと思ったんです。だって俺は男だし、奥さんみたいに夢はないし、可愛くないし……違いすぎるっ……。死んでしまった人には、いくら頑張っても、敵わないって……!」


それでも彼は俺の名前を呼んでいた。


この広すぎる家で俺が来てくれるのを待っていた。初めて会ったあの時も、雨が降ったあの時も、今だって、俺を見ていてくれたのに。
どうしてもっと早くに気がつかなかったんだろう。そしたら桑原さんのこと、こんなにも寂しい思いをさせずに済んだのに。



「俺でも、いいですか……?料理も奥さんほど上手くないだろうし、絵だって描けない。まだまだガキだから迷惑も沢山かけるだろうし、何より俺、自分じゃ間違いに気付けないっ……」



宮崎さんに指摘されて、真守に背中を押されて、桑原さんに教えてもらわないと気が付けない。
また間違った道に進んで、桑原さんを傷付けるかもしれない。




「……俺、雨が好きなんです。雨が降ったら桑原さんに会えるから。理由なんてなしに、また会える気がするから。止まなければいいのに、って。止んだら、さよならしなくちゃいけないから、止まなければいいのにって。雨が嫌いな桑原さんと、正反対です……そんな俺でも、まだ好きだって、言って、くれます、か、」


瞼いっぱいに涙を溜めて、呂律が回らなくなった俺を彼は優しく抱き返してくれた。


「雨が好きになったんだ、涼太くんと出会って。また涼太くんに会えるから」


抱きしめられている腕が強くなって痛かった。痛いほどに、彼を想っていた。
漂う彼の匂いがして身体が火照る。逆上せたせいなのかは分からない。


「お、れ……これでもいろいろ、考えたんですよ。やっぱり男だから、プライドとか、怖さとか。……それでもやっぱり、桑原さんがいい。また俺のこと、抱いてくれますか」


一瞬驚いた表情を見せた彼が、すぐさま崩れた笑みを浮かべて今一度俺を抱き締める。


「前は勢いでしてしまったからね、ごめんね。今度は優しくするよ」




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