雨の降る日


タンスからタオルを一枚出すと俺に差し出し、苦い笑みを向けて告げる。


「申し訳ない。突然こんなお願いをしてしまって」

「いえ、俺も助かってますから」

受け取ってなるべく上品に体や髪を拭きながら、ありがとうございます、という言葉と一緒に返した。



屋敷の中は思った以上に広すぎて静かだった。長い廊下を渡って辿り着いたこの部屋も、目に付くのは机とテレビとタンスだけ。とても殺風景で冷たかった。


「あの、家の人は……」

「ああ……私ひとりなんだよ。五年前に妻を事故で亡くしてね。私の家族は実家に帰った」

「あっ……ごめんなさい」


どこか淋しげに告げる彼を見て、不味いことを言ってしまったと視線を地面に落とした。ぱさぱさと棘のように跳ねた畳に暗い影ができる。


「いいんだよ、気にしないでくれ。今まで一人でも良いと思っていたが、案外心が虚しくなるものだね」

「だから、俺を……?」

「違うとは言えないね」


外見からして三十代前半くらいだろうか。優しく落ち着きのある雰囲気の中に、どこか孤独感がポツリとある。きっとそれは、彼特有の何か。


「自分も一緒に、実家に帰ろうとは思わなかったんですか」

「……妻と暮らしたこの家を置いて行くわけにはいかないんだ。また妻を、一人にしてしまう気がして」



この一瞬で、彼の全てを知ったわけではない。この男の背負う残酷な過去も、美しい思い出も、言い表せない現在も、何一つ自分には分からない。それでも、この男にとってどれだけ人という存在が大切なのか、それだけは分かってしまった。



真っ直ぐ俺を見ているはずなのに、彼のその黒い瞳には、誰も写っていない気がした。




「お腹が空いただろう、カレーを食べよう。昨日から煮込んであるんだよ」


一晩おいたカレーはいっそう美味しいと笑う彼に続いて、俺もお米をよそるのを手伝った。炊きたてのお米の香りと、片面にかけるカレーの香りが広がって、自然と笑みが零れた。

スプーンと麦茶も用意していただきますの合図をすると、男が口にカレーライスを運びながら尋ねてきた。



「そういえば君は、学生なのかい。制服を着ているところを見ると、きっとそうなんだろうね」

「はい。ここからすぐ近くの高校に通ってます。三年です」

「三年生は……十八か。若いね、羨ましい」


目の前の彼だって十分若く見えるのに。細くキレ長の目に伸びた睫毛が微かに揺れる。


「あなたは、」


何歳なんですか。そう聞こうとした瞬間、彼の携帯電話が鳴り響いた。


「すまない、仕事の電話だ。少し出て来る」


そう呟いて、男は席を外した。




ひとりになった途端に孤独感が満ちた。高い天井と薄暗い電気の明かりが、今にも襲ってくる化け物のようで恐ろしくなった。こんなにも広すぎる家で、彼は二年間もひとりぼっちでいるのだろうか。いつまでも帰ることのない妻を求めて。


テレビ台の端に伏せられている写真たてが気になった。男は俺を部屋に招くと同時に、隠すようにしてそれを伏せた。そこに何が映っているのか興味はあったけれど、知る勇気はどこにもなかったんだ。


そういえば俺は、彼のことを何も知らない。知っているのはこの家の主で、男で、俺より年上で、妻を亡くしていて家族がいないということくらいだろうか。

彼はどうして俺を受け入れてくれたのだろうか。不恰好な格好をしたじゃがいもが入ったカレーライスを、どうして食べさせてくれたのだろうか。


「……雨宿りできたのは、いいけどさ」


湿った髪を摘まむと、指先にツンとした感覚が伝わった。冷たい。


引き戸の向こうで小さく聞こえる彼の声以外、まるで自分自身がいることさえ忘れてしまうくらい静寂が続いた。カチカチと一定のリズムで音を立てる時計に合わせて、忍ぶようにカレーライスを口に運ぶ。寂しい部屋。冷たい家。

カラン、とコップの中の氷が溶けて音を立てた。



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