雨が降ったなら
「もうすっかり暗くなっちゃいましたね」
「そうだね」
ジジ、と変な音を立ててつく街灯は、もう寿命なのか付いたり消えたりしている。
「夏だねえ。花火大会も多くなる」
以前より多く聞こえる虫たちの囁き声に耳を傾け夏の訪れを感じる。近いうちにまた、セミの声が聞こえてくるだろう。
「夏休みはどこかに行く予定?」
「まだ全然決めてません。でもたぶん、今年も海に行くのかな。去年は友達と海まで行ったんですよ。花火を買って馬鹿みたいに騒いで、夜の浜辺でやったんです」
何気ない話を繰り返す俺たちに構わず、二人の足はさっさと進む。話のテンポに合わせて速くなる歩調が淋しくて、意識していると今何を話しているのか分からなくなって間ができたりした。
俺は何を焦っているのだろう。
「……前に桑原さんが送ってくれるって言って、断ったとき、少しだけ後悔したんです。送ってもらえばよかった、って」
少しでも長くいさせてもらえばよかった。数秒でも、それが許されたのだから、と悔やんだ。
「名残惜しくて、どうせもういないだろうって思って振り返ったら、桑原さんはまだ見ていてくれて……。もういない、もういない、そうやって何度振り返っても、結局桑原さんは、俺が見えなくなるまで手を振ってくれた。凄く、嬉しかったんです」
「……私だって寂しかったんだよ」
もう俺の家が見えている。やっぱり数分でも、数秒でも長く並んでいたくて、自然と歩調が遅くなる。それは彼も同じようだった。
「……やっぱり、断ればよかった。こんな暗い夜道、一人で帰って行く桑原さんの背中なんて、見てられない」
「部屋に入っていいよ」
「……嫌ですよ」
小さく笑った俺が家の前で足を止める。小田、と書かれた表札をぼうっと眺めていると、後ろで足音が止まった。一階のリビングから橙色の明かりがうっすらと見える。
何か言葉を発したいのに上手く頭が回らなかった。それでも沈黙は苦しくなくて、時折強くなる夜風に当たりながら、このまま何時間でも立っていられる気さえした。
「……涼太くん」
か細い声が聞こえた。それなのに振り返ることも返事をすることもできなくて、再び長い長い静寂が訪れる。
田んぼの並ぶ田舎道のこの場所は、人の声もまるで聞こえない。時刻が時刻なだけあって仕事帰りの人影もなく、電気さえ付いていない住宅街は息苦しい。
このままでいたって、仕方ないのに。
「家、ここでしょう。入らなきゃ風邪引くよ」
重い足を動かして振り返ると、彼はじっと俺を見つめていた。
「桑原、さん……」
「……私を捨てたのは涼太くんなのに、何で君の方が辛いなんて顔するの」
しわくちゃな表情で、精一杯笑った彼が言う。
「捨ててなんか、いない……っ」
その表情を見た瞬間もう駄目だった。堪えていた涙がぼろぼろと大粒の雨のように流れ落ちて頬を濡らす。
最後までしっかりと彼を見ていたいのに、視界が朧になって上手く焦点が合わせられなかった。
「ごめん、なさ、……ッ」
誤魔化しきれない涙を隠したくて俯いた。
瞬間、あの大きな腕が俺を抱く。
「まだ諦めてなんかいないからね。何度だって言うよ。俺は涼太くんが好きだ。愛してる。ずっとずっと愛してる」
「桑原さんっ」
俺も好きだと、愛しているとそう告げれば、きっと彼はもう一度笑うだろう。あの優しく眩しい顔で微笑んで、俺の全てを受け入れてくれるだろう。
でもそんな言葉、今の俺には無意味なのだと本当は気付いている。
この瞬間が幸せで満ち溢れていても、きっとぶつかるであろう過去という壁。なあなあにして彼を傷付けてしまうより、きっとさよならをした方が彼にとっても幸せだ。
間違っていない。正しかったはずなのに……どうして、どうしてこんなにも涙が溢れるのだろう。
「好きだよ。大好きだよ、涼太くん」
「桑、原さ……ッ」
ーー名前を呼ばれるだけで幸せだった。
あの突然の雨の日に、俺たちは出会った。
優しく家に招いてくれただけで気になり出して、名前を知って恋に落ちた。何気無い言葉に胸を高鳴らせ、過去を知って胸を痛めた。想いが通じて抱き締め合って、それでも怖くて逃げ出した。
名前を呼ばれるだけで、天にまで登れそうだったのに。
『久しぶり、雨宿りの少年』
『雨が降ってきたでしょう、三時過ぎくらいに。また君が来てくれる気がしてね』
『そうか。涼太くんか』
『涼太くん。もう呼んでしまっているけど、これからもそう呼んでいいかな』
ーー俺は少し、欲張りすぎたのかもしれない。
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