雨が止んだ日


二十四時をとうに過ぎた頃、二人でシャワーを浴びた。お互いの体を洗い合って、重なるようにして湯船に浸かった。



「こんな日が来るなんて夢にも思いませんでした」そうはにかみながら告げると、彼もまた笑って幸せだと答えた。




再び寝室へ戻り二枚隙間なく付けられた布団にそれぞれ潜る。暖かい空気と共に外で車の音が遠くへ聞こえた。静寂の中、俺と桑原さん、二人きり。



「……桑原さん、ありがとうございました」

「何が?」


不思議そうに微笑んで横目で見つめる彼に「抱いてくれて」と戯けて見せた。


「私も、抱かせてくれてありがとう」


同じように戯ける彼に一緒になって笑った。


「もう“俺”って言わなくなっちゃうんですね」

「涼太くんの前では、格好いい大人でいたいから」

「十分格好いいのに」


奥さんには何て言ったのだろう。未だにそんなことを考えてしまうのは、俺の悪い癖。


「……手、繋いでもいいですか」

「ああ、いいよ」


毛布の隙間から手を出して、探るようにして指一本一本を絡め合う。


大きな手。優しい手。



俺を抱いたこの手。



「俺、ずっとこうしたかったんです。桑原さんに触れられるたびに、もっと触って欲しい。手を繋ぎたい。抱き締めて欲しいって。……自分がどんどん女になっていくみたいで、少し気持ち悪くて不安でした」


眉を下げて笑うと桑原さんもこちらを向いて嬉しそうに笑む。


「これからは沢山してあげられるよ」


優しい彼が痛い。刺さった小さな棘は、まだ抜け切れていない。


「明日は、この家でのんびりしたいです。この家の思い出を、少しでも増やしたいんです」

「いいよ」

「それでもう二度と、ここには来ません」


彼の表情が一瞬にしてに険しくなった。優しさなんてどこかに消え去り、怒っているような、苦しいような、真剣な表情に変わる。


「どうして」


それでも俺は馬鹿みたいにへらへらとして、続けて言った。


「やっぱり俺には無理です。桑原さんと奥さんの思い出を壊すこと、潰すこと、塗り替えること、……俺にはできません」

「何度も言っているでしょう。涼太くんが壊すなんてことはないよ」

「桑原さんがそう言ってくれるのは分かります。でも俺には無理です。たぶん、同情なんですよ。桑原さんのこと奪っちゃったら、奥さんがあまりにも惨めすぎる」

「……私は諦めるつもりはないよ、涼太くんのこと。涼太くんが好きだから」


握られている手の力が増した。強くて折れてしまいそう。彼の気持ちが伝わってくるようだった。


「そういえば桑原さん、諦め悪いんでしたっけ。奥さんにも、そうやって何度もプロポーズしたんですよね」


あはは、とわざとらしく笑うと、彼が不愉快そうに俺を睨む。


「ご、めんなさい……。やっぱり俺、無理ですよ。桑原さんと一緒にいる資格、ない……」


テレビの横に置いてある写真立ては、今でも伏せたままだった。
泊りに来る時に寝かせてくれるこの場所は、リビングの隣にある襖で区切った和室。二階には、上がったこともなかった。


「……信じて、ないのかもしれません、桑原さんのこと」


どうしようもなく不安だった。

美しく描かれたあの夕暮れの町並みを見たとき、日が沈むのに温かかった。
優しかった。


もし奥さんと同じ場所に立って同じ風景を見たとき、俺はきっと思うだろう。




「……ごめんなさい」



暗い闇しかない夜なんて来なければいい。

隣にいられるかも分からない明日なんかいらない。


このまま時間が止まって、彼と二人、いられればそれでいい。



「ごめ、なさい……っ」


顔を伏せて啜り泣く俺の手を、桑原さんは優しく包むようにして両手で握った。


「もし……もし美術館も行かないで、あの話もしなければ……普通に好きだと告げて、抱き合って、この先も涼太くんと一緒にいられた……?」


返事もしない沈黙の中、桑原さんは「……後悔ばっかりだ」と情けなく笑った。







雨の多く降る六月も、もう終わろうとしていた。




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