雨が止んだ日


二十分ほど歩いたところの広い駐車場の奥に、長方形の白い建物があった。



「ここが桑原さんが働いている場所ですか」

「一般的に想像するような美術館ではないでしょう」

「はい、少し違いました」


俺が行ったことのある美術館はやたらと作品が敷き詰められていて難しい内容ばかりだ。けれどここは、一つ一つの空間が大きくて作品同士の距離がある。一つのものに集中できる。白い室内は作品をより際立たせて光の加減で僅かに変わってくる。静かなこの場所にいるだけで、まるで自分が作品の中に存在するかのような錯覚まで持つ。すごい。


「作品を並べてしまうとどうしても隣の作品が気になってしまうでしょう。フェンスを作ると作品との距離も生まれてしまう。難しい説明文もいらないんだ。誰が、いつ描いたか。そんな誰にでも分かる内容のほうが、みんなも理解してくれる」


偉い人には好まれないかもしれないけれど。そう微かに笑って一枚の絵画の前に立った。





夕暮れの街、何気ない風景。
タイトルは、無題。





「『画家を養う自信はある?』ーー彼女は事あるごとに、いつも私にそう聞いた」

「え……」

「初めて出会ったのは高校一年生のとき。何かの賞をとって体育館で表彰されたときに初めて彼女の存在を知った。……出会ったとは言わないか」


口元を緩めるだけの笑みを見せて作品に触れる。
どこにでもあるような住宅街。その家々をそっと撫でて続けた。


「美術室の前に展示されているので是非みてください。そんな教師の言葉もそのときは忘れて、実際に彼女の作品を見たのは暫らくして美術の授業があった日のこと。ーー驚いた。美術が得意じゃなかった私は素直に上手いと思ったけれど、それ以前に、あの絵の場所を実際に見たことがあったんだ」

「この絵ですか」

「いいや。これは彼女が死ぬ直前に描いたものだ」


思わず言葉を失う。『死ぬ直前』。


「彼女は実際にある風景をよく描く人でね。外の景色や人の顔、近所の猫なんかも描いていた。高校のとき初めて見た絵には、私が散歩するときに通る秘密基地が描かれていたんだよ」


秘密基地という単語に、隣の男が一段と幼く見えた。
彼にとっての秘密の場所。恐らく、奥さんにとっても。


「……桜が綺麗に見えるんだ。特別大きくもないし、公園とかにある桜に比べれば寂しいくらい。人一人しか通れないような細い階段を、ずっとずっと登って行ったところにある。ベンチも何もない、桜だけがその場所に取り残されたような空間。……彼女は夜桜を描いていた。私は昼間にしか散歩に行かないから、すれ違っていたんだね。それを彼女に話したら、同じように彼女も驚いていた。まさか自分以外にあの場所を知っている人がいるだなんて、って。それから意気投合して、二人であの場所に行くようになった。何気ない話を繰り返して、ただ時間だけが過ぎて行く。……幸せだった……一目惚れだったんだよ」




不思議なくらいこの時間帯に人はいなくて、俺と桑原さん、二人だけの空間が広がるようだった。

過去に戻って行くような、奥さんが生き返るような、幸せに満ちた横顔。



「告白を、したんだ。君に惹かれていると、あの桜の木の下で。気が強い人でね。私は将来絶対に画家になってみせる。画家を養う自信はあるのか。そう聞かれた。無茶だと答えた。画家は給料が安定しない仕事だし、私もちゃんとした仕事につけるか分からない。そしたら、じゃあ無理だとあっさり振られた」


おかしそうに笑ってみせて、照れ臭そうに髪をいじる。


「……なおさら、惹かれてしまった。高校を卒業して彼女は美大へ進んだ。有名なところだ。私も地元じゃ有名な大学に進んだ。彼女のことが諦められなくて、何度も何度も連絡をとってデートに誘った。その度に告白を繰り返して、同じように画家を養う自信はあるのかと聞かれて、また振られた。けれど大学を卒業して、大手の電機メーカーへ就職したんだ。もう一度彼女に会って告白をした。二十二歳で晴れて両想い。今の家に引っ越してきて直ぐに籍を入れた。ーーたったの二年。彼女とあの家で暮らした時間は、私たちが友達でいる時間よりも遥かに短かった」

「どう、して」


思わず声が零れて、掠れた言葉が沈黙に流れる。


「……事故だよ。雨の日に、スリップした車にやられた。……即死だった」


どう言葉をかけたらいいのか分からずに、ただ馬鹿みたいに唖然とした顔で、彼を見つめていることしかできなかった。





ーーだからあなたは、雨があまり好きではないと、俺に言ったんですね。






「この絵はね、直前まで彼女が描いていたものだ。自宅の二階、彼女の仕事部屋から見える夕方の景色。コンビニに行ってくると、私はそれを見送った。気をつけてね、行ってらっしゃい。ーー行ってきます。ヒデくんが好きな珈琲ゼリーがあったら買って帰るね。薄い桃色の傘をさして、彼女は家を出て行った」


泣いちゃだめなのに、瞼いっぱいに溢れて視界がぼやけた。泣きたいのは桑原さんなのに。泣いちゃだめなのに。
彼は困ったように笑って俺の涙を軽く指先で拭う。


「話さないほうがいいかな」


言葉にならなくて思い切り首を横に振った。


「……彼女の近くにはコンビニの袋に入った珈琲ゼリーとプリンがあったって。後悔したよ。あのとき私が一緒にいれば、珈琲ゼリーも断っていれば何か変わったかもしれない。……でももう全部遅い。どうにもならない」


「だからこの絵は」それだけ呟いて再び作品を見つめた。


だからこの絵は、無題。

タイトルも、完成しているのかも分からない。



もう誰にも、分からない。





「死んでしまうのは怖いけれど、残される方はもっと怖い。後どれだけ愛する人がいない生活を繰り返して、後どれだけ思い出さなくちゃいけないのだろう。ーー年をとるといろんなことを忘れてね。彼女との思い出もどんどん薄れて行く。それが怖くて悲しくて、引きこもってしまいたくもなった。でも彼女は言ったんだ。絶対に画家になるって。私にそんな才能はないけれど、それでも近くで支える仕事を選んだ。頑張って資格を取って、会社も辞めて、今の仕事についたのも最近のこと。……この絵は、上で働いている方が特別に置いてくれたんだ」






これでやっと彼女の夢が叶う。



笑っているはずなのにどこか寂しくて……ああ、俺はこの顔を知っている。そうか。この表情をするとき、彼はいつも、奥さんを想っていたのか。


何か言葉を発したいのに何を言ったらいいのかも分からずにただ黙って彼を見つめていた。
可哀想に、辛いだろうに、そう同情ばかりを心の中で繰り返し叫んでいた。


「……ごめんね、涼太くんには、聞いて欲しかったんだ」


また何も言えずに首だけを振った。


大丈夫ですよ、桑原さん。俺はちゃんと桑原さんの傍にいますから。桑原さんの辛かった過去も全部、受け止めますから。ーー自分を良いように伝える言葉なんて山ほどあるのに、そのどれもが彼には似合わなくて、無意味で、鉛みたいに沈んでいった。




こんな人、好きにならなければよかった。そしたら同情のひとつも、深く考えずに言えたのに。




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