雨が降った日


約束の日の一日前、金曜の五時半過ぎに桑原さんの家のに向かった。
実は放課後わざわざ駅前のスーパーに寄って、豆腐、ひき肉、長ネギをレジ袋に詰めて一度向かったのだが、インターフォンからの反応がないのでしぶしぶ一時帰宅したのだ。

そりゃあそうか、平日だって美術館はやっている。仕事があるに決まっているじゃないかと寂しさを押し込めて、自宅でひとり麻婆豆腐を作っておいた。それからラフな格好に着替えて身支度を済ませ、タッパーに詰めた麻婆豆腐を片手に再び彼の家に向かうのだ。



「もう帰ってきてるかな、桑原さん」


自然と足早になりながら空を見上げるとまだ明るいことに違和感を覚えた。つい先日までは暗く肌寒い夜道も、あっという間に夏に近付くのか。早いものだ。





本日二度目のチャイムを鳴らしても応答はなかった。時刻は六時三分。


「まだ、か……」


定時上がりでもさすがに早く来すぎたと苦笑いを浮かべ、近くのコンビニで暇を潰すことにした。ここから五分程度だし、駅への通り道になっているからきっと桑原さんにも会う。
今日もまたデザートを選んでおこう。そんなことを考えて商品の前で突っ立っていると、久しぶりのあの声が俺を呼んだ。


「涼太くん」


私服で会うのはお互い初めてで、一瞬誰だか分からずに沈黙が続いた。


「……宮崎さん?」

「こんなところで会うだなんてびっくり。恥ずかしいなあ、部屋着で来ちゃった」


頬をほんのり染めてもじもじと動く彼女は、キャミソールに白いパーカーを羽織り、ショートパンツとスニーカーという確かにお洒落とは言えない格好だった。けれど俺も人の事は言えない。


「大丈夫だよ、俺も部屋着で出て来ちゃったから。ダサいよね」


ははっ、と誤魔化して笑う俺に宮崎さんは至って真面目に「そんなことないよ」と否定した。
素直に喜べないのは、彼女の下心を知っているから。


「涼太くんは、かっこいいよ」


何かを伝えるとき、宮崎さんはいつも真っ直ぐに目を見つめて言う。小動物のような大きなキラキラした目で、俺に告げる。彼女のそういった性格は好きだった。



「……あの、返事なんだけど……」

「宮崎さん、ごめん、俺まだ……」


違う。本当はとっくのとうに答えなんか出てる。


「考えて、くれてたの?」


「え」


宮崎さんの声は俺の元に曲がることなく素直に届き、同時に俺に罪悪感を与えた。


「私のこと、少しでも思い出してくれたかな」

「っ……」




俺はいつだって返事だけは達者で、純粋なふりして嘘ばっかり吐く最低な人間だ。



ーー考えていなかった。寝ても冷めても、あの男、桑原秀助のことばかりを想っていた。




「……。考えてたよ」


少しだけ声が震えた。


「そっか。ありがとう」


彼女の目を見るのが怖くて反らした視線の先に、桑原さんを見つけた。相変わらず暗い色合いの服を着て、左手に仕事用と思われる鞄を持っていた。


「ご、めん。俺、もう行かなきゃ」


逃げるようにして出口に向かうと、桑原さんと目が合った。たぶん隣にいる、宮崎さんとも。


「待って!」


声を荒げた彼女の手が、俺の右手首を掴む。行かないで、という、無言の訴えだった。


「……宮崎さん、俺やっぱり、」

「涼太くんはあの人が好きなの」


動揺した。ピクリと指先が震えて奇妙な冷や汗が流れる。


「どうして、そう思うの」


否定とも肯定ともとれない、上擦った言葉が出た。
ドクッ、ドクッ、という心臓の音が耳元で鳴っているようで、周りに人がいることさえ忘れさせる。


「涼太くんが好きだから。涼太くんのことずっと見てたから。……分かるの」



俺の元に雑音が届いたのは数秒後のことで、レジを打つ機械音、雑誌をめくる音、お菓子売り場ではしゃぐ子供の声、誰一人俺たちのことは気にしていないようだった。



宮崎さんを見ずに頷いた俺を、彼女が見ていたか分からないけれど、今度は彼女の手が微かに動いたので察しがついた。


「……ごめん、宮崎さん」

「男の人だよ、涼太くんも、あの人も」


軽蔑か、それとも偏見か。どちらにしろ悪いようにしか取れなくて、悪いことしかしてなくて。


「変、だよね。俺もこんなのはじめてで、どうしたらいいか、分からないんだ」


情けなく震えた声と共に彼女の腕が離れた。諦めたような、呆れたような脱力感が伝わる。


「……ごめん、宮崎さん、……ありがとう」



正面を見たときにはもう桑原さんはいなくて、きっと気を使ってくれたのだろう。

以前、彼と俺と宮崎さんの三人が会ったときのことを、彼は申し訳ないと言った。
俺に、いや或いは宮崎さんに、気を使ったのだ。




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