申し訳なさでいっぱいになった。自分だったら忘れられたら悲しい。そう、答えが出ていたくせに目の前の男が泣かないからって、平気だなんて馬鹿な決め付けをした。
「ごめんなさい」
「え、なにが?」

「私、思い出せな「ユナ」

言葉を遮られて、これは言ってはいけなかったのではないかと気づいた。止めてもらえてよかった、なんて言葉の続きに気づかれているのだから思えないけど、さっきとは別の意味で胸が苦しくなった。頭の上に大きな手がある。目を細めて笑んでいる。
それが、下手に泣かれるより苦しそうに見えた。

名前を呼ばれているのに自分が呼ばれている実感が無いのは、自分の名前の響きがこんなに甘いものだと思っていなかったからだ。名前を呼ばれるだけで大切にされていることを感じるなんて。

「君は記憶をなくしたけど、それはユナが悪いんじゃない。だから、謝らないで」
「…」
記憶をなくしているけど、わかる。私はきっと、この人にすかれてしあわせだった。この人をしあわせに出来ていた。息が詰まる。私、しあわせだった、なんていえない。でもどうしたら彼をこんな表情にしなくて済むのだろうと考えてしまう。たった2、3日で容易くこの男に惹かれてしまう自分が居る。そしてそれが酷く馴染んでしまうから、後ろを振り返れない。
「次謝ったらキス、しちゃうから」
「!」

感傷的だった気持ちがすっと引いていくようだ。
このひとはきっと凄くやさしいんだろうな。そう思ったら記憶を失って何もかもわからなくなって、荒んでいた気持ちが洗われていくようだった。なんだ、私しあわせだ。
「…どうしたの?」
あまりにも居心地がよくて調子に乗りすぎただろうか。男は目を丸く見開いて固まる。
「いや、悪いけど俺そろそろ任務に行かなきゃいけないから」
「あ、はい」
「朝方帰るから寝ちゃってていいから」
「はい」
急によそよそしくなった気がした。男は浴室の方へ行くと口元まで隠した服を着て戻ってきた。この時間からの任務というと何か見てはいけないようなことをして帰ってくるのだろうかとよからぬことを考えてしまう。
緑のベストを羽織って額当てをするとこちらに背を向けて玄関へと音もなく歩いていく。
心臓が嫌な音を立てる。この人は強いのだろうか弱いのだろうか。それさえもわからなくて不安に潰されてしまいそうだ。記憶を無くす以前の私ならただこの人を信じて待っていられたのだろうか。この人の異変にも気づき、甘えるだけでなく甘えてもらえていたのだろうか。

「…いって、らっしゃい」
「!」
私の声にぴたり、止まった彼が顔だけ振り向いてこちらを見た。瞳は先ほどより大きく見開かれている。

「…ユナ、悪いけどやっぱり起きて待っててくれる?」
「え」
「じゃあね」

ふっと目元だけで笑って消えた彼に心臓が握られたようだった。


20110303
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