「ああ、今日も来たんすね」「そんな風に言わないでよ、まぁ愚痴に付き合うのは嫌だろうけど」「別に、仕事っすから」「もう、」

「どうぞ」

仕事帰り、私の住むマンションへの帰り道の途中の小さなバーのドアを開けると、面識のあるバーテンダーが声を掛けてくれた。奈良さん、このお店のマスターだ。ここ最近失恋したばかりでバーに通いつめているからだろう。いつの間にか名前を覚えられていた。

「え、まだ頼んでない、」「これは特別です」

いつも来てもらってますから、と出されたのは薄く綺麗なオレンジ色のお酒で、グラス全体を見るととても可愛らしいものだった。私はありがとうございます。と言いながらいつも座るカウンターの席に腰をかけて、テーブルに左肘をついて、隣の空いている席に鞄と上着を置いた。

「で、今日もまた何かあったんすか?」「も、って」「じゃあ違うんすか?」

「も、だけど」

そう、私が諦めたようにため息を吐きながらグラスに手をつけると奈良さんはくくと喉で味のある笑い方をして、きゅっきゅっとグラスを磨いている。

「彼が、他の女性社員と腕組んでるのを見ちゃったんです、それだけなんですけど」

なんだか思い出すともやもやが止まらなくて。そう話す私に奈良さんは適当に相槌を打つだけだけど、時々空になったグラスに私のお気に入りのお酒を注いでくれる。もう私の好みもペースもわかってくれるから、すごくやりやすい。単に私が通いすぎなんだろうけど、ここは心地いいからそれも仕方ない。静かにジャズが流れていてお客さんも騒ぐような人は入ってこない。
ほんとは失恋の愚痴を吐きながらも、奈良さんと話をするのが目的になってきた私もいる。でも、失恋相談をしてから恋をするにはあまり時間は経っては無いから言い出せない。それに、落ち込んだときに来る場所で落ち込んだら立ち直れ無そうだというのもある。
「まぁ、失恋した相手と同じ職場はやりにくそうっすよね」

「凄くやりにくいです、」「でも、その女性社員のひとも気をつけた方がいいかもしんないっすよ」「え、」「男は、案外狡い生き物ですから」「そう、なんですか?」「例えば失恋の痛手を癒そうと相談してくる女性を自分のものにしようと企んだり、ね」

そう言ってあなたは私の心を崩すのね

「ものに、してくれるんですか?」「そうっすね、じゃあ勘定は名前さんで」


遠吠え
20110215