01.図書委員の日常
彼は一瞬眉を吊り上げたが、目を伏せ答えてくれた。
「他の人間は来ないし、ここは掃除区域からも備品の点においては見捨てられている」
用は済んだとばかりに彼は本を取り出し読み始めてしまった。多少ご立腹のようだがそんなことはどうでもよくなって、樋山は膝に顔を埋めた。
礼を言うためだけに待っててくれた。にやけるのを抑えることができなくても誰も責めたりはしないだろう。
「緒方。好きだよ」
膝の隙間から呟く声はどうせ彼には聞こえていないけれど、それでもいい。いつものことじゃないか。
返事はないけど、満たされていた。
彼は自分を認識してくれている。
今まで、同じ空間にいても会話すらしたことがなかったのだから、大きな一歩だ。
ほうっと息を吐くと予鈴が鳴った。
彼から本を取り上げて教室へ駆けながら思う。
あとどれくらい時を重ねれば、彼に名前を呼んでもらえるのだろう。
***
彼は本を読まずに待っていてくれるときがある。
何を話すわけでもない。彼はじっと樋山の動きを見つめている。そしていつもは樋山が隣に腰かけたところで読書を開始するのだが今日は違った。
彼は樋山を見つめたままで手元の本を開こうとしない。彼が自分を認識してくれることは嬉しいが落ち着かない。
「緒方」
居たたまれなくなって名前を呼ぶと予想外の返事がきた。
「なあ、お前の名前って何」
「……え」
図書委員兼緒方の連れ戻し係になってから数カ月、同じクラスになって半年以上が経った今それですか。
なんだか泣きたくなったがなにせ緒方は外部生。幼稚園から周りを見知っている内部生の樋山とは違うのだ。
「樋山恭介だよ。……同じクラスって知ってるよね?」
返事がない。彼を見れば気まずげに目を逸らされた。やっぱり泣いてしまおうか。もうやけくそだ。
「樋山。もう、憶えた」
なのに彼はにっこり笑って、もう一度樋山と呟くと彼は何事もなかったかのように読書を始めた。
ひとり現実世界に残された樋山はぼんやり緒方を見つめ、頭を抱えた。
「あー……」
なんだろう。
すごく嬉しくて、叫びたいような、校内を駆けまわりたいような複雑で甘い気分。
深呼吸をして彼の耳元へ唇を寄せた。
「緒方、好きだよ」
「俺もだ」
予期せぬ返事に心臓が跳ねあがる。
至近距離にある彼の茶色い瞳が樋山を捉えた。
聞かれてしまった。
どうしようかと混乱する樋山をよそに、彼は小さく笑ってやっぱり読書を続けてしまい、その様子に拍子抜けして今度こそ頭痛がしてきた。
まったく、この想いをどうすればいい。いや、その前に。
予鈴が鳴ったらどんな顔して連れだせばいいんだ。
***
待ちに待った昼休み。
昼ごはんを一緒に食べている友人たちに断り廊下へ出ると幼馴染の亮介に呼び止められた。
「最近、インテリらしいじゃん」
「まあね」
中学になってクラスが分かれてしまった上に夏から緒方にべったりだったためこんな小さな会話でさえ久しぶり。
しかし懐かしんでいる余裕はない。軽く笑って流したつもりだったが、お互い目が笑ってないことはわかっていて、亮介が目線で指し示した場所へさりげなく向かう。
行きついたのは階段の踊り場。
昼休みが始まってまだ10分。誰もいないことはわかっているが、亮介は注意深く確認して口を開いた。それでも声を抑えているのがこいつらしいと感心する。
「恭介、気をつけろよ。噂になってる」
何が、なんて野暮なことはどちらも言わない。
分かりきっているからだ。
茶化そうかと思ってやめた。
幼小中高併設するこの夏扇学園なら進学するだけで幼馴染になってしまうけれど、亮介は本当に樋山の幼馴染だった。
心配してくれているのがわかって、顔が綻ぶ。
「大丈夫だよ、亮介が心配するようなことは何もない」
「そうか。いや、最初にヒロが気づいたんだけどね。他のクラスはまだだとさ。こっちは瑞樹だけど」
他の幼馴染の名が出ても驚かない。その代わり、他のクラスに漏れていないということに驚いた。
閉鎖的な男子校。
この類の噂は、中学に入学して間もない不安定な内部生の間ですぐに駆けまわるはずなのに。
「さんきゅ」
にっこり笑った亮介の顔は明らかに楽しんでいて、溜め息が出た。
「恭介」
「ん?」
「少なくとも中3は同じクラスになろうぜ。そしたらこんな噂、蹴散らせる」