愛の形
誰かを殺そうとは思っても、自ら命を断とうと思ったことは一度もない。
夏扇の教育の賜物、と恭介は自嘲しながら笑う。
聖母マリアの像を見上げるたびに、どこか誇らしげな気持ちを抱いていた、幼い自分。
何も知らなかった。
今、恭介の手の中には、すみれとお揃いの十字架がある。
すみれの兄、笹原紅葉が、幼いすみれと恭介に与えたものだ。
葵の様子から察するに、すみれの分は葵が持っているのだろう。
しかし、どうやって手に入れたのだろう。
しかも、あれをすみれのものだと、気が付いていた。
真司は、あれがすみれのものだとは知らないはずだ。
そして、恭介は葵にそれを与えた記憶がない。
――恭介ははたと思い当たる。
(記憶を失っているときの記憶もあったつもりだが、もしかして、何か、忘れてる……?)
しかし、恭介は訊ける相手がいない。
少なくともあと数年は、記憶を失ったときの状態でいなくてはならない。
記憶のない恭介は、過去と向き合うことを必要以上に避けていた。
覚えていないなりに、何か危ないものを感じ取っていたのだと思う。
とにもかくにも、訊ける相手がいないことに変わりはない。
「都合がいいってわかってるけどさ。すみれちゃん、助けてよ」
十字架を胸に揺らし、恭介は鏡を覗き込む。
もう、すみれには似ていなかった。
*****
他の誰かを犠牲にしても、愛する人と結ばれることこそがハッピーエンドなのだとしたら、恭介と真司は最悪の結末を迎えたことになる。
岸本瑞樹が幾分険しくなったように見える幼馴染、樋山恭介の顔を見たとき、瑞樹は僅かに自惚れた。
しかし、それもすぐに掻き消される。
「恭介」
聞こえるはずがない、それでも呼びかけずにはいられなかった。
なにを、隠してるの。
恭介は険しい顔をしたまま、瑞樹の妹の子を抱き上げた。