泡と消えても
昔、母に読んでもらった物語は、もっと優しかった気がする。
少なくとも、人魚姫を救うために王子が奔走する話ではなかったと思う。
――樹はぼんやりと、カイの消えた海を眺める。
本当に、人魚だったんですね。
カイさんの声、聞きたかったなあ。
脚が戻ったってことは、相思相愛だったってことですよね。
それともそれは、都合のいい、人間たちの作り話ですか?
ずるりと柵に手を掛けて、脚から力が抜けていく。
「樹? ――樹ッ!?」
先生、うるさいです。
もう少し、失恋の余韻に浸らせてください。
「なにをしているのです、海に矢を放ちなさいっ!」
先生を止めたいのに、樹にはもう、声を発する気力がない。
遠い昔、母に聞かせてもらった物語をなぞるだけなら、こんなに簡単なことはない。
だけど、カイを泡にする気もなかった。
ああ、そういえば、この恋って身分違いですね。
あなたが人魚の国の王子であるならば、ですけれど。
一領主と、王子の恋。
……なんか、微妙ですね。
ねえ、カイさん。
あなたの声で、呼ばれた気がするんです。
あなたの本当の名も、知りたかった。
愛した人魚が海の底で幸せに暮らすと信じて疑っていない男は、ゆっくりと瞼を下ろす。
*****
人魚の国の王子様は、愛した人間の男を刺して海へ帰っていく。
いつか死んで、泡と消えても。
この罪は、消えない。
おわり
2013/10/16