お話
真砂は愛されていた。
羨ましく、疎ましく、そして、愛しかった。
同じ血を引くからではなく、真砂は渚の理想だったのだ。
年の離れた弟もすぐ下の弟も、大切だった。
嫡男として生まれながら欠陥だらけだった自分へ、真っ直ぐな愛情を向けてくれた。
もっと生きたいと幾度となく願った。
だけど、こんな方法で生き延びたいと思ったわけではない。
「白兄上。すみません」
「わかってる」
真砂。
いつの間にか僕の背を越した弟。
もう抱きあげることは叶わない。
「あなたは、出来るだけ長く」
「言われずとも」
「なぎ兄上は、悲しむでしょうか」
「ええ」
「白兄上――、すみません」
これが、別れだ。
曲がり角の先に弟の気配を感じた。
「真砂、おいでなさい」
呼びかけると、躊躇した気配の後に駆け寄ってくる幼い命。
抱き締めると、心が甘酸っぱく疼く。
この自分にも守れる者があるのだ。
「しろあにうえ」
「なんでしょう」
「おれは、しろあにうえのおそばにも、なぎあにうえのおそばにもいたいのです。わがままでしょうか」
「ええ。とても我儘で、叶えられようのないことです」
真砂が泣きそうな雰囲気を漂わせたので、白波は腕に弟を抱きあげた。
「だけど、僕たちはそれが嬉しい。困ったな」
「しろあにうえぇええええええ」
声が弾んでいる。
白波は微笑を零した。
「さあ、そろそろお昼寝の時間です。いっておいで」
「しろあにうえも一緒に寝ましょう」
「いや、僕は」
眠くないし、と言おうと思って、真砂の言葉をそのまま受け取ってはいけないことに気づく。
「では、お前が眠るまで、絵本を読むことにしましょう。さあ、どれがいいですか」
「うぅん……。じゃあ、あれ」
「あれ、ではわからないよ、真砂。持ってきて」
「はい」
表紙に触れると、わかる。
白波もまた、兄に読み聞かせてもらった。
白波に読み聞かせてやった絵本を、白波が真砂に読み聞かせているときは本当に驚いた。
「お前――、わかるのか」
大好きな兄の声と体温に包まれてぐっすりと眠る末の弟が起きる気配はない。
「ええ。もちろん、あなたのわかるとは意味が異なりますが」
白波の腕に抱かれた真砂が微笑んだので、渚はその頬を突く。
「憶えるほどに、あなたからは読み聞かせをしてもらいましたから」
「絵は」
「指が憶えています。あなたは目が見えない僕に絵を触れさせた」
そんなこともあった、と渚は黙り込む。
傍から見て愚かしいとわかってはいても、やめられなかった。
いつか、見えるようになるのではないか。
そんな淡い期待も去ることながら、まるで光を持たぬことが罪であるかのように感じさせたに違いない。
「悪かった」
「……何がです」
「お前には負担だっただろう。目が見えないことを責められているように感じたんじゃないのか」
「そんなこと」
弟は呆れていた。
真砂を抱き直し、静かに渚へ語りかけてくる。
「僕が喜んでいたのが、わかりませんでしたか」
「気は遣わなくていい」
「事実です。――もともと見えないのです。僕は世界を知りません。だから、あなたの考えているような絶望は僕にはありえない」
ふと触れた兄の頬が濡れていたときがあった。
そのときは気がつかなかった。
乾いたとき、血の臭いがした。
兄が怪我していた。なのに程度がわからない。
もし、目が見えていたら、手当が出来たのに。
構ってほしいと縋ることなんてなかったのに。
「白波。どうした」
絶望はありえないと言いながら、次第に暗い表情になっていく弟を見て渚は不安になった。
渚以上に他者へ表情を閉ざす術を持っているにも関わらず、渚には白波の表情が読めた。
「どうして泣いている、真砂」
「なぎあにうえがみつからないのです」
「では、一緒に探そう」
光を持たぬ兄に、上の兄が見つけられるはずがないと思っていた。
なのに。
「見つけた」
しろあにうえはなぎあにうえをすぐにみつけてしまった。
「そりゃあ、兄弟歴長いからね」
真砂が気配を読む術を身につけたのは、渚がそれを身につけたときよりも随分と遅かった。
「健康だったから、だろうな。気配を読む必要がなかったんだ」
兄はいとも簡単に結論を導き出したが、白波は弟がにぶちんなのではないかと危惧していた。
「兄上。真砂は本当に真っ直ぐですね」
「ああ」
「あなたに似なくてよかった」
「俺は繊細だ。お前と同じように」
「知ってます。兄上」
白波の手を引いて、自らの世界を言葉にしていく瞬間が真砂は好きだ。
後ろから優しく包み込んでくれる渚の視線が、好きだ。
「なぎ兄上も、遠乗りしましょうよ」
「いや、俺はいいよ」
なぎ兄上も白兄上も我儘を言わない。
だからというわけではないが、真砂は末っ子らしい我儘っぷりを発揮していた。
もちろん、叶えられるときと叶えられないときの分別はつけているつもりだ。
真砂は兄が好きだった。
自らより劣る兄たちが。
「真砂」
病弱な長兄が腕を広げて待っている。
「なぎ兄上、俺はもう幼子ではありません」
その腕に飛び込みたい気持ちをぐっと押さえて、真砂は澄ました顔で言う。
「ほう、そうか」
渚は仕方がないな、という顔をして笑っている。
白波が渚を呼ぶとき、必ず手を叩いた。
「あのな、白波。手を叩かなくても、俺は白波がどこにいるかわかるんだよ」
見えるということは説明しようがなかった。
「あにうえにはすごいのうりょくがあるのですね」
「違う、白波、そうじゃない――」
苛立った声を出すと、白波の頬が強張った。
白波はひとりで彷徨っていた。
ひとりということは周囲の気配を読んで既にわかっていたし、それが悪意によって引き起こされたことも知っていた。
「白波!」
突然現れた気配が白波の腕を掴む。
「どうして、こんな、こんな――ッ!」
兄は言葉が見つからないようだった。
あまりにも憤りが過ぎると倒れてしまう。
白波は渚の肩にそっと触れた。
「兄上、僕は大丈夫です。兄上は」
「俺はどうでもいい! ああ、白波、あー、もう、チクショウ――ッ!」
兄の嘆く理由がわからずに、白波は兄を抱き締めた。
渚は驚いたようだったが、白波をしっかりと抱き返し、声を上げて泣いた。
兄たちと遠くに行きたいけれど、それは叶わない。
長兄は体が弱かったし、次兄は盲目だし、真砂自身はふたりをつれていくには幼すぎた。