お話
「渚」
兄上と呼ばなくなった日を白波は覚えている。
振り返ったであろう兄が、きっと両手で包まれているだろう頬が、
「白波」
兄の手が濡れていた。
それが血なのか涙なのか白波にはわからない。
「渚」
ええ、どうかこのまま。
僕は真砂の死を悲しむ資格はないのです。
「俺は嬉しくない」
「知ってます」
「触ってごらん、白波。真砂はこんなにも嬉しそうに笑っているよ」
それを確かめる術を白波は持たない。
捕まえるべき気配はとうに失せてしまった。
「渚。これはもう真砂ではありません。真砂だったものです」
「お前は見ることができないから、そんなひどいことを言えるんだ」
どちらがひどいというのだろう。
光を持たないと決めたのは、白波ではないのに。
「渚。なぎあにうえ」
「呼ぶな」
「なぎ、あにうえ」
ずっと昔、真砂が呼んでいたように。
ずっと昔、焦がれていた呼び方をなぞって。
そして、頬が叩かれた。
「白兄上、お許しください」
「――お前のいない世界で、僕も長く生きる気はないよ、真砂」
そして真砂は白波の手を取った。
森を駆け抜けているのだろう。
渚。
あなたひとりを置いていく僕たちって、良い弟でしょう?
弟の乱れぬ息遣いを聞きながら、白波は笑みを浮かべていた。
長兄の渚も、次兄の白波も、真砂を溺愛していた。
「白波」
「はい」
弟が生まれて、兄といる時間が増えたからだろう。
消えゆく時間が、白波の心を蝕んでいく。
「兄上」
「真砂は、悲しむかな」
「僕も悲しいです、兄上」
父の正妻であった実桜は渚たちにも優しかった。
しかし、妾であり渚たちの母である緑は冷たかった。
「渚、おいで」
「はい、お母さま」
母は母上、義母はお母さま。
そう躾けられた。
渚と白波に文字を授けたのは実桜だった。
「お母さまは」
なぜそんなにもお優しいのですか、と訊ねた渚に白波は呆れた吐息を漏らした。
「そうねえ。あなたたちの母上が、子を授かったといってでかいツラしてたのに、あなたたちが生まれてから苛々しているのを見るのが愉しいから、かしらね」
白波は義母の本心を見抜いたようだった。
「思ってないくせに」
ぼそりと吐き捨てた横顔は大人びていた。