図書室の主 | ナノ

Pianissimo

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「しゅーう」

 夜風に彼の名を乗せるとだらしなく口元が緩む。
 照れがなく彼の名を呼べるようになるには1年以上を要した。正確な時間は憶えていない。

 平岡を好きになったのが先か、それとも平岡に好かれたのが先か、なんて古沢にとってはどうでもいい。イメージの刷り込みだろうとなんだろうと、古沢は今、彼が好きなのだ。

 かつて恋していたなんて嘘だ、今も俺のことが好きなくせに。
 センパイなんて呼びたくない。
 平岡先生なんて生徒や同僚たちと同じ呼び方も嫌だ。

 そこまで考えた古沢は夜空を見上げ苦笑した。
 平岡の背を追いかけ音楽の道に飛び込み、声楽家としてそこそこ名も売れている。なのに古沢はどんどん欲張りになって、いつか平岡のことなんてどうでもよくなってしまうかもしれない。

 彼よりもっと大切なものが出来るとしたら、それは音楽か人か。古沢にはわからない。

 電車に乗って自宅に帰った古沢は、リビングの殆どを占めるグランドピアノにそっと触れる。

 アップライトでも良かったけれど、新たに買うのが面倒で就職が決まった時に持ってきてしまった。このグランドピアノは自宅に置いていても誰も触れないし調律もされない。ならば、たとえ下手でも古沢が時々弾けばいい。

 人差し指で撫でたC(ツェー)の音が硬い。
 ピアノは本当に苦手だった。

 気を紛らわせるために抽斗から適当にスコアを取り出し、発声練習もそこそこに母音で歌う。――ソルフェージュ(歌詞を用いない歌唱訓練)。古沢が日々欠かすことのない練習だ。

 大学に入ってからソルフェージュに力を入れたため声楽は劇的に伸びたけれど調子に乗ってピアノから遠ざかり、試験はひどいものだった。

 高校のときもそこそこ厳しい試験だったけれど平岡が特訓に付き合ってくれたからなんとかクリアできた。

 丹田に力を込めるが何か物足りない。
 母音で歌うときもイメージは鮮やかに。歌詞の意味に沿った文節にも気を配る。

 平岡の堂々とした笑みが脳裏に翻ると、古沢は声が出なくなってしまった。
 もう一度。
 いや、ずっとあの笑みを眺めていたい。

 そしていつか、この部屋で古沢のグランドピアノを弾いてほしい。

「センパイ」

 自身から零れ落ちたベースは弱々しく情けない響きで夜の気配と混ざり合う。
 このままじゃ、駄目だ。平岡が頼ってもいい、すべてを委ねてもいいと思ってくれるような力強さを持たないと何も手に入れることはできない。

「俺は、センパイが好きだよ」

 先程空気を震わせた声はきっと、平岡の心に届いた。
 なのに今、自身が発した力強い声に古沢の心は白けていく。
 苛立つまま拳を鍵盤に叩きつけると耳障りな音が渇きを僅かに癒した。




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