図書室の主 | ナノ

Pianissimo

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「セーンパイ。できたよ」
「……ああ」
 音楽準備室は嫌いだ。

 楽しかった頃の記憶なんていらない。
 音楽室はもっと嫌いだ。
 彼との思い出しか残っていない。

 国民食と言っていいほど人々の生活に浸透しているであろうカップラーメンの匂いで平岡の胃が刺激された。
 礼を言うこともなく、差し出された容器を受け取りソファに深く腰掛けると隣に古沢が座る。彼も空腹だったのだろう、平岡が手をつける前に先に箸をつけている。

 食欲をそそる匂いと音に平岡も食べることにした。
 伸びたら捨てるのももったいない、なんて誰にともなく言い訳をしながら。
 しかし、カップ麺ひとつで大の男の胃袋が満たされるわけもなく。

「お前、何が目的だ」
 ローテーブルの上に空の容器を載せたら古沢がシンクまで運んで行ってくれた。その背に問うと、古沢は平岡を振り返り哀しそうな瞳をしていた。

「センパイと話すこと」
「それだけか?」
「それ以上を望んでもいいの?」

 自暴自棄のように古沢が吐き捨てる。
 神さま。
 これは、俺の責任です。

「俺は確かに、お前に恋をしていた」
 古沢の瞳が揺れた。
 手招きをし、自分の隣を叩くと古沢は大人しく従った。

「俺のイメージは、お前と共にいることだった。――刷り込んだのは、俺だ」
 平岡の伴奏で歌い続けていた古沢。
 コンクールのときは、イメージを統一する。それは作曲者の人生であったり自分たちの生い立ちであったり、異国の風景であったり日常のひとコマであったり。

 平岡は古沢のイメージに寄り添い続けた。それが、伴走者としての務めだったからだ。
「……知ってるよ、センパイ」

 なのに、均衡は崩れた。
 彼の歌声に、聴衆のひとりとして心を奪われたそのときから、平岡は古沢の姿ばかりを追っていた。

 俺は、彼に恋したのか。
 彼の才能に魅せられたのか。
 疑い始めた瞬間から平岡の手元は狂った。数多くいるライバルたちに勝てなくなったのもその頃だ。

「俺は、センパイが好きだよ」
 平岡にすべてを捧げている瞳。穏やかなベースが彼の誠実さを余すところなく伝える。
 好きだ、と言ってしまいたい。

 今も古沢が大好きだ。
「古沢」
 言えるわけがない。

「帰れ。もう眠りたい」
 彼の手首を掴み、強引に家の外へ追い出すと、彼はにっこり笑った。
「おやすみ、センパイ」

 彼の背が遠ざかる様を見たくなくて平岡はすぐに室内へ戻り錠を下ろした。
「俺は」
 好きだ、なんて、言えない。

 言われてもいないのだから。
「逃げてばっかりか……」
 視界の隅できらりと光った爪切りを手に取り、思い切り床に叩きつけた。

おわり

20121206



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