Pianissimo
台所とダイニングを繋ぐ襖を開け、ソファに寝そべり古沢が調理する姿を見ると5年間の空白なんて忘れてしまいそうだ。
「古沢ぁ」
「ん?」
お前、歌うのを辞めるな。
言わずもがなであることを口走りそうになる唇を手のひらで押さえ、振り向いて心配そうに平岡を見つめる優しい眼差しへなんでもないと手を振る。
ピアノ、続ければよかった。
諦めなければよかった。
そしたら今、もっと堂々と古沢の隣に立てるのに。
「センパイ」
手を洗った古沢がソファの胴体を背もたれにして平岡の脇に腰かけた。平岡の真横にある柔らかい髪を掻き混ぜるように撫でてやると嬉しそうに微笑む後輩は首を傾け、静かに告げる。
「突然来て、ごめん。でも、逃げられたくなかった」
「この俺が逃げると思った?」
「2週間、避け続けてたじゃん」
もっともだ。返す言葉がない。黙り込んだ平岡の頬を、古沢がそっと擽る。
「んっ」
嫌がるように上半身を捩れば古沢はすぐに手を引く。それが物足りなくて彼の手首を掴んだ。古沢は驚いたように一瞬震えたが、大人しく掴まれたままになっている。それでいい。
「俺、ずっと歌ってた。センパイに、俺がどこにいるか知ってほしくて。辞めたくても辞められなかった。センパイと俺の繋がりなんて、卒業しちゃえば簡単に切れるものだったんだってわかって怖かった」
真っ直ぐに平岡を貫く瞳は穏やかに凪いでいる。思わず見惚れてしまい、手を離すと古沢は平岡に向き直り正座をした。
何かが変わりそうで、期待してはいけない未来から耳を塞ごうとする平岡の手を、古沢の両手が包み込む。
「俺は、センパイのことを想いながら歌ってた」
純粋な想いを知らされ、それが何を指すかはわかっている。沈黙を守る平岡を不安げに見る古沢の瞳の中には熱が込められていた。
これでは、あの日と一緒だ。
「かわいそうな奴だな。思い浮かべる恋人もいなかったのか」
棘を孕んだ冷めた声で、平岡は古沢の想いを撥ね退ける。
声楽に限らず、音楽はイメージで鮮やかに変わる。かわいそうに、古沢の歌を聴いた観衆は見ず知らずの男のイメージを刷りこまれたに違いない。
「……センパイ」
「腹が減った。もうカップ麺でいいから準備しろ」
ぶっきらぼうに吐き捨てると、瞳に傷ついた色を浮かべて古沢が立ちあがった。寝返りを打ち、平岡はソファの背に顔を埋める。
夢から逃げた俺にできることは、お前の幸せを願うことだけなんだ。
男に恋なんてするな。
でも一度くらいなら、古沢とキスしてみたかった。