図書室の主 | ナノ

Pianissimo

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 帰宅するための電車の中で、平岡は固い表情のまま窓の外を見つめていた。放課後補習はなんとか乗り切ったものの、自分でもわかるほど上の空だった。生徒たちに申し訳ない。

『しゅーう』
 耳の奥で、先程の古沢の声が平岡を呼ぶ。
 うん、と心の中で返事をする。じわじわと満たされていくようで、しかしなぜこんなにも泣きたくなるのだろう。

 名前を呼ばれたのは初めてだ。それなのに違和感がなかったのは、彼が呼び慣れていた証拠。

 センパイ。平岡センパイ。ずっとそう呼ばれていたのに。
 閉鎖的な男子校で、ことあるごとに平岡を追ってくる後輩が可愛くて仕方がなかった。

 平岡が夏扇で教師となったとき、恩師たちはかつての演奏を憶えてくれていた。そして、古沢が来ると学年を越えた仲の良さを懐かしそうに思い出してくれた。

 平岡はそれを笑顔で聞く。古沢もきっとそうしているだろう。
 あの瞬間の苦々しさが喉を突き、平岡は自嘲気味に片頬を歪める。

 古沢の伴奏者として各地に赴き、平岡自身もピアニストの卵と言っていいくらいの賞は獲った。しかし、自分たち程度の人間ならごろごろしていることも知っていた。

 この程度では、誰に認めてもらうこともできない。
 そして、平岡の高校卒業を機にふたりは疎遠になった。

 ――電車のアナウンスが平岡の降車駅を告げる。中途半端な時間帯で人の疎らな駅の改札を抜けて、就職と同時に決めたアパートへ歩く。早く帰って眠ってしまいたい。

 そう考えながら階段を上り、自室の扉の前に佇む人影を認めた平岡が身震いしたのは、4月中旬の風が冷たかったからではない。

 古沢、と声を出さずに彼を呼ぶとこちらの気配に気づいた古沢の真っ黒な瞳が平岡を捕らえる。

「セーンパイ。入れて」
 食材の入ったビニール袋を目の前に掲げ、古沢はにっこりと笑った。

 躊躇ったのは一瞬。招き入れたのは、こいつの体を冷やすのがよくないと思ったからだ。食材に釣られたわけではない。ましてや――その先を考えることが面倒になり、平岡は思考を放棄した。

「調理はお前がするんだ」
「わかってるよ。待っててね」

 現在の同僚であり、中高時代の後輩。友人に近い関係なのだからやましいことなんてない。避け続けていたことを棚に上げ、自身に言い聞かせながら、皿や包丁を確認している古沢の背を眺める。

 準備室では気づかなかったが、筋肉が増えて身長も伸びた気がする。
 住所はどうやって知ったのだろう。ああ、職員室の職員名簿か。平岡が拒まなかったからいいものの、世間ではストーカーと言うのではないか。

「古沢」
「なにー?」

「お前、犯罪者になりたいのか」
「……なんの話ー?」

 呆れたような間があり、声帯を微かに震わせ古沢が笑う。むっとした平岡の気配を感じ取ったのか「ごめんごめん」と謝るがまったく誠意が感じられない。

「40分くらい待ってて」
「そんなに!?」

「一応、カップ麺もあるけど?」
 米を研ぎ、炊飯器のスイッチを入れながら言われて驚くと、人参を手に取った古沢が包丁を持った手でビニール袋を指差す。腹が立つが人任せにした以上、文句を言う権利はない。

「いい、待ってる」




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