図書室の主 | ナノ

Pianissimo

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 嬉しさに高鳴る心臓に気づかないふりをし、平岡は無表情を保ったまま冷静に言葉を紡ぐ。

「気のせいでしょう。数学と音楽じゃあ、接点もない」
「なら、センパイ。若輩者同士、仲良くしましょうよ?」
「断る。離してください。補習の準備がまだなんです」

 振り返りたい。でも、振り返れない。顔が見えなくてよかった。きっと心が揺らぐ。そんな平岡の心の内を見透かしたように、古沢が後ろから抱き締めてきた。

 手首を掴まれ、平岡の口元に持っていかれる。その指先を、古沢が肩越しに口づける。
「ピアノ、辞めたんだ?」

「……ああ」
「俺のために弾いてよ」

 爪の伸びた平岡の人差し指を愛おしげに撫でる古沢の手から目を逸らすことができない。綺麗に揃えられた爪。ピアノを弾くためだ。チョークを握る自分の指とは違う――。

「自惚れるな」
 昔は、こいつのために弾いた。古沢のためだけに弾いた。そのときの想いが呼び覚まされそうで平岡は歯を食いしばる。力の入った平岡の緊張を解くように、古沢の左手がとんとんと平岡の胸を叩いた。

 それでもなお身を固くしたままの平岡に、彼は諦めたように溜め息を吐く。耳元に掛かる吐息は密着した腹筋の動きをリアルに伝え、居たたまれない。

 高校のときからあらゆる賞を掴みとっていった後輩。音大に入ると才能を更に伸ばし、意図的に音楽から遠ざかった平岡の耳にもその活躍が聞こえてくるほどだった。

 柔らかく優しい温もりに包まれ、平岡はそっと瞳を閉じる。
 いったい、何を恨めばいい。遠くから彼の活躍を見守り、いつかこっそり聴きに行こうと思っていたのにこんなに近くに現れるなんて。

 若き声楽家は教鞭を執り、ピアノを捨てた自分を抱き締めている。
 あまりにも都合がよすぎて、これは自分の夢ではないかと平岡は疑っている。遠く離れてから、幾度も望んだ光景。再会してから、関わりを持たないようにしていたのに気がつけばその声を追っていた。

「しゅーう」
 重厚なベースを奏でる彼の声が、甘えるように平岡の名を囁く。返事はできない。古沢に呼ばれ、返事をすることなんてできない。

「後輩としての俺を、捨てないで」
 哀しみを湛えた声に、指先が震える。ああ、相変わらず俺は。

「拾ってないものは捨てられない」
 身を捩り彼の腕を振りほどいた。至近距離の古沢の瞳は傷ついた色を浮かべていない分、成長したらしい。

 ついこの間のことだったような気もするのに、気がつけば5年が経過している。
 別れ際の傷は癒え、痛みももうない。だから、この痛みは錯覚だ。

「補習の準備があるので失礼します」
「――ええ。届けていただき、ありがとうございました」

 職員室へと戻る道すがら、昔と全く変わらない廊下の風景から目を逸らす。この校舎いっぱいに古沢との思い出が詰まっている。

 目を閉じるまでもなく、笑い合っていた自分たちの姿がそこかしこに蘇り平岡は呆然と廊下に佇んだ。

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