Pianissimo
譜面が入ったクリアファイルを小脇に抱え、平岡はポーカーフェイスを保ったまま音楽準備室へと急ぐ。
これを置いたらすぐに職員室へ引き返す、と擦れ違う生徒たちが見てもわからない無表情の下で固く決意した平岡は走らない程度に足を動かすが、職員室から2番目に遠いといわれる音楽準備室へはなかなか着かない。
今年で24になる平岡は、昨年数学教師として母校である中高一貫の夏扇(かせん)学園に就職した。
若輩者で担任も持っておらず、また、自分の恩師たちも殆ど残っていたため、平岡は着任当初から雑務を引き受けることが多かった。
今日も先輩教師の雑務を早々に終え、やっと自分の用事に手をつけることができたのは放課後。
演習問題を刷ろうと無人の印刷室に行ったが運の尽き、恐らく合唱部が使うために印刷したのであろう譜面の原本がコピー機に挟まったまま残っていた。
持ち主である音楽教師古沢の職員室の机に置いてもよかったが、様々な書きこみが加えられたそれはきっと古沢にも、合唱部員たちにも必要なものだ。
現在殆どのクラスが終礼中、平岡の受け持つ数学補習の開始時間までは余裕がある。
入れ違ったときのために古沢の机にメモを残し、平岡は音楽準備室へ向かうことにした。もし届けたら、メモは回収すればいい。
平岡は音楽準備室が嫌いだ。職員室から2番目に遠いというのがその理由で、中高に在籍した当時に考え抜いた近道を使っても往復に5分以上掛かる。ちなみに1番遠いのは図書準備室だ。だから、図書関連と音楽関連の雑用はできるだけ避けるようにしていたのに。
考え事をしていると音楽準備室に着いたので、扉をノックする。
「どうぞー」
焦ったような上の空の声にほくそ笑み、平岡は後ろ手で扉を閉める。コーヒーの匂いが鼻を掠めたが部屋の主は優雅に程遠く、端正な顔を焦燥に歪ませ、髪を振り乱しながら何かを探している様子。
通常は古沢の性格上、綺麗に整頓されているはずの机の上は譜面や教科書が散乱し、現在は鞄を漁っている。
もうすぐ23の誕生日を迎える古沢は今年、やはり母校である夏扇に音楽教師として迎えられ、平岡とは在籍当時から知り合いだった。声楽家を志してストイックに体づくりに励んでいた後輩の姿を平岡は今でもおぼろげながら思い出せる。
すぐに帰ろうと思ったのに、久し振りに近くで横顔を見ると心の奥があるはずのない痛みを訴えた。
「おーい、誰だい?」
生徒は入室時に名乗るものだが、平岡は黙っていた。それを訝しむ古沢、しかしその目は相変わらず鞄の中に向けられている。
「お探し物はこれですか」
目の前に自分のクリアファイルから取り出した譜面を差し出してやると、古沢はぱっと顔を輝かせた。
「あー! これだよ、ありがと、っ……!?」
満面の笑みを浮かべて譜面から顔を上げた古沢が驚愕に固まる。間抜けな顔。でも、整った顔のこいつはこんな顔も似合う。もういい。十分だ。印刷室で原本を見つけてからすでに7分以上が経過している。職員室へ戻って補習の準備をしないと。
「待ってよ、センパイ」
心の中で言い訳をしながら古沢に背を向けたら腕を掴まれた。
「アンタ、俺が着任してからずっと避けてる」