本編
図書室の蝶番に油を注してから数日が経った日のこと。
小説スペースで珍しく彼が本を読まずに座っていた。しかも、樋山を真っ直ぐに見つめている。
いつもなら気づかれず隣に座れるが今日はどうしたものかと思うがこちらを見ているのに離れて座るのもおかしい気がして結局定位置に座る。
隣に座ってもなお、彼がじっと見つめているのであれほど彼からの視線を望んだものの居心地が悪い。
なぜ彼は本を読んでいないのか。
――いつもの、幼稚な告白がばれたのだろうか。
「……珍しいね」
「ありがとう」
会話が噛みあわない。
戸惑っていると彼が更に口を開く。
「油を注してくれたのはお前だろう」
「……よくわかったね」
「昨日気づいた。いつもより開けやすかった。ありがとう」
「他の人かもよ」
「いや、お前だ」
「……根拠は?」
きっぱりと言い切る彼に悟られないよう無表情を作る。でないと顔がにやけてとんでもないことになりそうだからだ。
「他の人間は来ないし、ここは掃除区域からも備品の点においては見捨てられている」
用は済んだとばかりに彼は本を取り出し読み始めてしまった。
礼を言うためだけに待っててくれた。
今度こそにやけが収まらなくて樋山は顔を覆った。
「緒方。好きだよ」
どうせ彼には聞こえない。
彼の顔を見つめて告げる。
返事はないけど、満たされていた。
彼は自分を認識してくれている。大きな一歩だ。
――予鈴が鳴る。
彼から本を取り上げて手続きをして教室へ駆けて。
あとどれくらい時を重ねれば、彼に名前を呼んでもらえるのだろうか。
おわり。